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しばらく経ってしまったけれど、先月スペインのマドリード自治大学で博士論文の審査委員を務めたときのことをまとめてみます。

なぜ審査委員をすることになったのかというと、審査される学生の指導教官(当時はまだ会ったことがなかった)からある日突然「審査委員をやってくれないかと」というメールが来たからです。よくよくもとをたどってみると、その指導教官が最初はトレントでの僕のボスに依頼をしたところ、彼が諸事情で行くことができず、僕のことを推薦してくれた、ということであったらしい。その学生自身はトレントに半年程度滞在していたことがあって、僕と一本共著論文を書いていたこともあり、僕もよく知っている人でした。彼はやむをえぬ諸事情があって博士論文を書き上げるのがだいぶ遅れてしまい、ようやく審査までこぎつけたという背景があったので、僕としてもトレント側の人間として彼の審査を見届けたいという気持ちもありました。

D論の審査というのは国によってそして大学によってそれは様々な制度の違いがあるようです。イリノイ大の場合は審査委員は指導教官を含む4人のイリノイ大の教官によって成り立っていました。イタリア・トレント大学の場合、指導教官は審査委員に含まれず、トレント大学から1人、そして他の大学から2人准教授レベル以上の地位の人が審査委員として審査にあたるようです。他の大学からの審査委員は多くの場合他国から選ばれていて、EUとも限らず、アメリカやオーストラリアから審査に来ていた人もいました。さて、スペインのマドリード自治大学の場合は、指導教官は審査委員になれず、総勢5人の審査委員が審査にあたります。僕はポスドクですが、それでも問題はないようでした。問い合わせてみたところ、「履歴を見て、審査委員にふさわしいと大学が判断すれば常勤ポストについていなくても構わない」ということでした。僕以外の4人のうち1人はフランスCNRSの所属で、これは大学ではないのですが、それでも大丈夫ということです。大学所属でなくても、常勤でなくても、まあ構わないというフレキシブルな制度ですね。

さて、審査委員に1人フランスCNRS所属の人がいると書きましたが、彼は僕の旧知の友人というか共同研究者です。審査委員の依頼が来た時、僕はイギリス・エジンバラの学会に参加していて、彼とはホテルで部屋をシェアしていました。ということで、ホテルの部屋で「お前もあいつの審査に行くのか」みたいになったのですが、彼はフランスで仕事はしていますがスペイン人で、スペインのD論審査事情にも詳しかろうと思っていくつか基本的なことは聞いておきました。彼によると、スペインでD論審査をする場合、よほどのことがなければ落ちない。落ちるレベルのD論だった場合は、審査当日に落とすようなことはせず、それ以前に何らかの形で本人に伝え、書き直すか審査を延期するかするということでした。これは、(噂によると)平気で落とされたりメジャーリビジョンになったりするイギリスのクローズドなD論審査とはだいぶ違って、どちらかというとイタリアの審査に近いです。また、それなりにフォーマルなので、「ジーンズにTシャツ」みたいな服装は避けたほうが良いとのことでした。考えた末当日はノーネクタイのスーツという格好で行きましたが、これは概ね合ったいたようです。

審査の一ヶ月前に、学生からD論のPDFコピーが送られてきました。これを読んで審査する、というのはまあどこの国でも同じでしょう。希望者には紙のコピーも配ります、とメールには書いてあったのですが、スペインからイタリアへモノを郵送するとどれくらいかかるかわからないので、こちら側で勝手に印刷して簡易製本して読みました。

マドリードに行くのは初めてだったので、行って、審査して、とんぼ返り、みたいな感じではもったいないと思って、研究と観光合わせて4泊することにしました。審査の前日の午前中に僕を呼んでくれた教官の人と議論したのですが、その人は僕のイリノイ時代の研究について結構詳しく勉強したことがあったようで、その時の研究についていろいろと話しました。というか、僕のイリノイ時代のかなりテクニカルな研究をそこまでフォローしている研究者に初めて会ったのですごく嬉しかったです。なんだ、僕の論文もわかる人が読めばちゃんとわかるんだなあ、と感激しました。夜は、そのマドリードの教官と、フランスCNRSの共同研究者と、あと翌日の審査に委員として参加する予定のマドリード自治大学の教授2人で食事をしました。スペインは食事が遅いようで、午後8:30からレストランに予約していたのですが、午後8:30というのはそのレストランの夕食の開店時間でした。ちなみに、午後8:30に開店するのはなかなか早いようです。

さあ、翌日の審査です。非常に注意深くこのブログをここまで読んだ読者は、審査委員5人のうち1人まだ登場していないことに気づきますが、そのもう1人の審査委員はマドリードの別の研究機関の研究者で、僕は審査当日に初めて会いました。まあとにかく5人の審査委員があつまり、委員長が事前の説明をします。印象的だったポイントは、D論審査はあくまで試験なので、学生の発表後に拍手などはしない、ということです。あと、D論審査には評価がつくようです。評価というのは、日本語でいうと「優・良・可・不可」みたいな感じです。評価というからには何らかの基準が必要ですが、どうやら最近はほとんど「優」が与えられる、とのことでした。説明をしてくれた審査委員長はたぶん70歳くらいですが、彼のキャリアの中で「優」以外が与えられたD論は確か5つくらいしかなかった、とのことです。しかし、この評価とは別に「cum laude」かどうか、というもう一段階別の評価があります。この「cum laude」は、特別優秀、というのを意味しますが、マドリード自治大学では80%以上の学生がこれを取得する、とのことです。

こんな説明を受けた後は、D論審査の部屋に行きます。そこには学生が発表の準備をして待っていました。審査委員5人はなぜか一段高い場所に座って発表を聞きます。まずは確か40分くらい学生が説明をし、審査委員は質問をはさまずじっと聞いています。発表が終わってからは審査委員の質問タイムです。いくらでも質問していいし、指導教官も事前に「容赦なく質問して」と言っていたのですが、まあだいたい一人当たり10〜15分くらいで、5人合わせて一時間くらい質問があったように思います。ちなみに、発表も質問も全て英語です。質問タイムが終わったら、審査委員以外は部屋を退出して、審査委員が部屋の中で話し合います。先述の通り「優・良・可・不可」と「cum laude」かどうか、を話し合うのですが、「優・良・可・不可」と「cum laude」の決定的な違いは、前者は審査委員5人すべての明確な合意で決定するけれど、後者は審査委員の覆面投票で決定するということです。どういうことかというと、「優・良・可・不可」は審査委員が「ではみなさん、優ということでよろしいでしょうか」「よろしい!」「賛成!」みたいな感じで決定するんだけれど、「cum laude」に関しては一人一人が紙にcum laudeを与えるかどうかを書き、それを他の人には見えないように箱に入れ、その箱を後日開封して全員がcum laudeに賛成だった場合はcum laudeが与えられ、もし1人でも反対がいた場合cum laudeは与えられない、ということでした。そういえば、まだ後日の開封結果を聞いていないので、彼にcum laudeが与えられたかどうかは知りません。

こんなことを一通り話し終わった後、学生が部屋に招き入れられ、審査委員長が「厳正なる審査の末、あなたに博士号を優の成績で授与することが決定されました。おめでとう!」みたいなことを言ってなにか証明書みたいなのを学生に渡しました。ここでようやく拍手があったような気がします。

この後、別の部屋に学生が軽食を用意しており、それをみんなでつまみました。軽食の後は、審査委員の5人+学生+学生の指導教官の7人で近くにフォーマルなランチを食べに行きます。長いランチが終わったのはだいたい4時くらいだったかな。D論審査及びそれに付随したイベントはこれでだいたい終わりです。夕食は学生と学生の友人たちに混じって行きましたが、これは審査委員としてというよりも、1人の友人として行ったという感覚です。しかし、この日はだいたい一日中なにか食べていたような感じです。

マドリードは面白かった。食べ物は美味しいし、街は活気があるし、楽しかった。そのうちまた行ってみたい。
# by t_oz | 2016-08-19 17:46
また実に久しぶりに更新です。前に更新してから一年以上経っていますね。

イタリア生活も2年以上が過ぎました。来た当時の新入り時代とはだいぶ変わって、研究所では古参ポスドク的な位置づけになってきている気がします。今の契約は来年の夏までなんだけれど、さらに3年更新を打診されているので、このまま万年イタリアポスドクとなる勢いです。まあ、こまめに次の仕事を探さなくていいのはとても楽です。

研究のことを書くと、最近はcold atom及び光の系でのトポロジカル・幾何学的な物理の研究をしています。イタリアに来るときにはトポロジカルな物理をやることになるとは思っていなかったけれど、やってみれば結構楽しいものです。

今年は、結構トレントを離れていた時期がありました。

まずは、パリに3週間くらい行っていました。パリ(というかその郊外のMarcoussis)には実験家と共同研究するつもりで行ったんだけど、その実験家がサンプル作成に手間取ってほぼ最終日くらいでようやく実験開始みたいになってあまりお手伝いできず申し訳なかった。まあ、サンプル作成に手間取ったのは向こうなので、僕が申し訳なく思う必要はあまりないんだけど。実験の(理論的)手伝いは出来なかったけれど、別の研究をその人たちと始められたのでよしと思っています。(でもその研究は今はちょっと頓挫中。)その実験家さんには非常に良くしてもらっているので、いつかなんか仕事で恩返しをしたいと思っているけれど、どうなるかなあ。まあ、とにかくパリはフランスパンが美味しかった。

次に、次期東大総長がオーガナイズした研究会に出席するため、日本に3週間くらい行っていました。それとは別に日本で何ヶ所かでセミナーもさせてもらいました。トポロジカル物理の基本的な共通理解を知らずに論文を書いて、それについて話をしたら、いろんな人からその結果はトリビアルだ何が新しいんだと言われて少し自信をなくしました。ヨーロッパで話をするととってもうけがいいんだけどね。日本の物理の世界はシビアです。まあ、でも、第一稿は確かに僕らの書き方が悪かった。出版されたバージョンは日本でのシビアなコメントを取り入れているので、だいぶ良くなったと思う。この論文は、しかし、非常に評価のわかれる論文のようで、レフェリーの一人は、この論文は非常に画期的で後に続く論文が次々と出てくるだろう(大意)、と言ってくれた一方、他のレフェリーには、この論文には新しい結果が皆無でこの論文が科学雑誌に載るとは考えられない(大意)、と言われたりしました。論文の受け取り方は人それぞれで面白いです。

あとは、イギリスにも2週間くらい行っていました。これは、半分仕事、半分休暇です。仕事で、初ケンブリッジ。応用数学の学会に行ってきました。行ってすぐに僕は場違いだということに気づきました。なんと言っても、参加者は応用数学者、考えている問題は一見物理の装いなんだけれど、モチベーションが完全に数学で、問題設定あるいは結果の物理的な面白さはほとんど気にしていないようだったのが新鮮でした。なぜある形のハミルトニアンを考えるのか、と質問したら、「こういうハミルトニアンを考えている物理学者がいるから」と答えられたのが何度かあって物理学者としてとても考えさせられました。ある発表では、相互作用が(ある単位で)1000って言っていてなんだか適当な感じだったから、「その強さは物理的に適切なんですか」って聞こうかと思ったけれどたぶん場違いな質問なのでやめた。おそらく発表者も僕以外の聴衆もその相互作用が物理的に適切かなんて気にしていない。とても不思議で楽しい学会。僕がPhDを通してやってきたスピン・軌道相互作用のあるBECの研究について発表している人が何人か居たんだけれど、僕はその人たちの研究を全く知らなかったのが衝撃的だった。PRAとかPRLとかに論文が出ているようだったので僕が知ってても全くおかしくないんだけど。他方で、僕の研究のことはその人たちには知られていないようでした。同じ研究対象で同じような雑誌に論文が載っていても相互にほとんど交流のない研究者の集団があるのだと知りました。しかし、この学会に出て以来、向こう側の人たちの論文にも気を配るようになって、それは悪いことではないと思っています。

他にも、南イタリア、サレルノ市の隣にあるVietri sul Mareという街のサマースクールにも参加してきました。10月だからむしろオータムスクールかな。スクールなので、参加者はほとんどが大学院生。ポスドクは僕を含めて2人しかいなかったです。でも、テーマはトポロジカル絶縁体で、僕のこの分野の知識は素人並みだったので、大いに学ぶところがあって良かった。というか、いろいろ面白いことが学べて非常に感動しました。休みの日曜にはポンペイに行ってきました。そう、ポンペイに近い街なのです。でも、日曜にポンペイからの帰りのバスのチケットの売店を見つけるのは至難の業でした。うろうろ歩き回って結局バス停から2kmくらい離れた場所でバスのチケットを買うことに成功。今度行く時は、前もってバスのチケットを用意して行こうと思いました。

まだ今年が終わったわけではないけれど、まあそんな感じの一年でした。
# by t_oz | 2014-12-01 07:05
イタリア生活も1年を過ぎました。当初は2年間の契約で来ていたんだけれど、1年延長のオファーをもらったので、ここには計3年住むことになりそうです。2年は短いと思っていたので、これは僥倖。

僕は個人的な面識は全くなかったけれど、某N氏の訃報に接して生と死についていろいろと考えてしまったここ数日です。

前回の更新は3月でしたね。それからもう半年以上経ってしまいました。その間、何があったのか。論文は3本投稿しました。トレントの研究環境ははイリノイよりも僕に合っていると感じます。特に、周りに議論できる相手が多いというのは良いですね。今年の最初に書いた論文で、ついに自分よりも50歳年上の人(Pitaevskii師)と共著を書くことができました。今までの論文は48歳年上と一緒に書いていたので、年齢ギャップをわずかに更新です。今後、これ以上の年の差で論文を書くのは(僕が年下と論文を書く、という状況を除いて)無さそうです。

他には、何があったか?学会・ワークショップでドイツとフランスへ行ってきました。ドイツはマインツ、フランスはLes Houchesです。Les Houchesは3年前にも行ったことがありましたが、ドイツは生まれて初めて。ドイツ料理はソーセージとビールばかりだと聞いていたけれど、まさにその通り、期待を裏切らないドイツです。マインツにはグーテンベルク博物館があって、そこでグーテンベルク聖書の本物を見てきました。帰ってきてから中国人ポスドクに、グーテンベルク博物館に行ってきたと言ったところ、グーテンベルクとは誰だと聞かれたので、活版印刷の発明者だと答えたところ、そんなはずはない、活版印刷は中国人が発明したのだ、と言われました。なるほどその通りです。失礼しました。

夏には、新婚旅行でギリシャへ行ってきました。アテネ・サントリーニ島・クレタ島です。アテネはアクロポリス(パルテノン神殿なんかがあるところ)や考古学博物館などはもちろん、デルフィにも足を伸ばしました。真夏のアクロポリスは酷暑で、午前9時頃にはもう日差しが強くて大変。デルフィは良かった。今では廃墟だけれど、昔はさぞかし豪奢だったのだろうと思わせる遺跡のたたずまいがとても印象的。ギリシャに行く前にヘロドトス『歴史』の最初の数章を読んで行ったところ、そこに書かれていたことが実際にデルフィの出土品などに見られて、歴史の連綿とした流れを感じることが出来ました。サントリーニ島とクレタ島は両方とも島だけれど、前者はバカンス用の小島、後者は普通の都市がある大きな島、という感じで全く雰囲気が違いました。サントリーニ島は綺麗で、美しくて、清々しく、是非もう一度行ってみたい。クレタ島は、目当てはクノッソス宮殿。クノッソス宮殿はエヴァンズ卿の修復による改変が激しく、一体どこまでがオリジナルでどこからが修復なのかわからず一々ガイドさんに聞いて回りました。これなら世界遺産に登録されないのも納得と思いました。一方、クレタ島の考古学博物館はなぜか目当ての品々(ファイストスの円盤・牛頭のリュトンなど)が改装中のため見られなくて残念。まとめ:ギリシャは良かった。いつかもう一度行きたい。今度は是非メテオラにも行ってみたい。

他には何があったか?8月にヴェローナのアレーナ(ローマ時代の円形闘技場)で野外オペラがあったので、見てきました。ヴェルディのナブッコ。野外のオペラは、円形闘技場の立体的な構造もうまく利用していてなかなか迫力がありました。行って良かった。オペラもなかなか楽しいものだ。主役(ナブッコ役)の人が出てきたときに、やけに盛り上がっているなあと思っていたら、後日調べてみたら実はプラシド・ドミンゴが主役だったことを知りました。ドミンゴだったのかあ。いいものを見た気持ちになりました。

主に旅行記みたいになってきました。他には何があったか?7月にはトレントで大きなワークショップがありました。「Summer Programme on Synthetic Gauge Fields for Photons and Atoms」という題で、cold atom及びphotonの系で有効ゲージ場の研究をしている重要な人たちが大勢やってきて賑わっていました。僕も大学院時代の主な研究テーマは有効ゲージ場中でのcold atomだったので大いに関係があります。(有効ゲージ場中でのcold atomの研究は、トレントに来てからも続けているけれど、メインテーマではなくなりつつあります。)久しぶりに元ボスとも会えました。でも、思い返して見ると僕は主にphotonの人たちと話していてcold atomの人たちとはあまり話していなかった気がします。

最近は、cold atomの研究はもちろん続けているけれど、時間の半分位をphoton、あるいはexciton-polariton系の研究に費やしています。トレントに来てcold atom以外のことにも手を伸ばしたいと思っていたところ、隣のオフィスのI氏が光の研究もやってみないかと誘ってくれたので乗ってみたところなかなか楽しくて続けているという状態です。でもまあ要するに固体電子系以外で固体電子系の延長的な多体問題を考えているという点は変わっておらず、単に対象が原子・分子か光子かという違いなので、本質的には違うことをやっている意識はありません。

そんなところでしょうか。ではではみなさん、また今度。
# by t_oz | 2013-11-05 22:20
久しぶりに更新しようと思ったら、新着コメントが176件もついていました。これはひどい人気ブログですね。エキサイトブログは迷惑コメントもたくさんつくし、他にもいろいろ不満な点があるのでそのうち別の場所に移るかもしれません。

最近は平和な日々を過ごしていました。水曜・木曜とフィレンツェで行われた謎のワークショップに出かけてきました。トレント大学のBECセンターが所属するINO(Istituto Nazionale di Ottica)という組織の年次大会、ということなのですが、なぜか今回が一回目で、二回目があるかはまだ分からないそうです。このいい加減さがイタリアらしい、というのが最近分かってきました。INOというのは、訳すと国立光学研究所みたいになるのですが、別にそういう一つの研究所があるのではなく、いろんな場所にINOに所属する組織が散らばっている、といった感じです。トレント大学のBECセンターもその一つ。この年次大会では、INOに所属するいろんな人たちがそれぞれの研究の話をするのですが、レーザーの生物への利用や、様々な波長の光を使って美術品を調査する手法や、コンピュータビジョンや、我々のやっている極低温原子系の基礎物理に関することなどあまりに幅広い分野をあつかっていて、正直言って他分野の話は全く分かりません。(セクションが分かれている、というわけでもありません。ワークショップは一部屋。)でもBECセンターからは教授・ポスドク等あわせて10人も行ってきました。そもそも「このワークショップは学問的な意味合いよりも政治的な意味合いが強い」と聞かされていたから、まあ、そんなものなのだと思います。政治は大事なのです。コンピュータビジョンが専門、と言っていた発表者がノートパソコンとスクリーンの解像度を合わせることができず、パワーポイントの左上の部分だけ表示させて発表をしていたのが面白かった。発表者が「(解像度を合わせられず)まあ、このままやりましょう。私の専門はコンピュータビジョンで、・・・」と話し始めたら聴衆から失笑がもれていました。

年次大会では、僕の分を含めてBECセンターは計7枚ポスターを出展しましたが、そのうち5枚がメインのポスター会場から一歩入った部屋の脇に立てかけてあるついたての"裏側"に割り当てられていました。なかなか見つけられない秘密のポスターです。仕方が無いのでついたてと壁の間に人が一人通れるくらいの隙間を作り、ポスターを貼っておきました。結局ついたての裏側のポスターを見にきてくれた奇特な人は、関係者以外ではおそらく一人しかいませんでした。

そんなフィレンツェの旅の一番の収穫は、フィレンツェのアジア食材店へ行ってきたことでした。出発前に場所を事前に調べておいて、ワークショップの空き時間に街に下りて行ってきました。梅干しも豆腐も日本っぽいお米もこんにゃくもキューピーマヨネーズも売っている、素晴らしい店でした。調子に乗ってお米を3kg買ってきましたが、フィレンツェから帰る頃にはお米の袋の一つが破れ、ビニール袋の中にお米が散乱するという悲惨な状況が生じていました。

しかし、帰りの電車の中でどうも花粉症を発症してしまったようです。日本では花粉症なのですが、アメリカでは花粉症が強く出たことは無かったので外国の花粉なら大丈夫なのかと安心・油断していましたが、花粉症の魔の手はイタリアには延びていたようです。今朝お医者に行って、抗ヒスタミン剤を処方してもらってきました。困ったことになりました。
# by t_oz | 2013-03-16 02:06
先週末は、北イタリアの景勝地、ドロミテ渓谷のAlpe di Siusiへ行ってきました。ハイキングに行くつもりで行ったのだけれど、結局スキーなどをやって帰ってきました。土曜日に行って、一泊し、日曜に帰宅。Alpe di Siusiというのは、ドロミテ渓谷の中にある台地(?)のような場所で、夏はハイキング、冬はスキーで賑わうリゾート地です。大学の友達が行くと言うのでついて行ったのですが、何をするのか特に決めず、まあとりあえず行ってから決めるか、みたいな感じで行ってみました。着いてみたら完全なスキー場で、あたり一面のスキー客。こちらのメンバー(僕を含め5人)は皆スキーがほとんどできないので、初日はとりあえずチャスポレと呼ばれる靴の下につけるカンジキを借りて、適当に辺りの雪の中を歩き回ってみました。こんな場所。
Alpe di Siusi_f0086297_4152269.jpg

でも初日のお昼の食事が悪かったのか、夜はなんだかお腹の調子が悪く、ホテルのベッドで倒れていました。
翌日は思ったよりも調子が戻っていたので、今度はようやくスキー。みんな完全なスキー初心者だったので最初はどうなることかと思ったけれど、みんなだんだんと慣れてきたようでした。リフトの先に初級コースが待っているはずがなぜか中級コースしかなくて焦ったり(それも二度)、一人が転んだ拍子に指を切って雪を血まみれにしたりといった、アクシデントもあったけれど、最後にはなかなか楽しめました。そんな週末。
# by t_oz | 2013-02-20 04:22