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卒業に伴い、約6年間住んだUrbana-Champaignを先週末離れることになりました。

思えばいろいろありました。22のときに来て今は28になっているので、結局20代の大部分をUrbana-Champaignで過ごしていたような気がしています。

結局卒業には1年余分に計6年かかってしまったわけですが、最後の1年はいろいろ成果がでたので結果的には多めに在籍して良かったと思っています。そもそもUltracold Gasに興味があって大学院に出願することになり、結果的にUltracold Gasの研究で博士号を取得できたのはなんと言うか予想外に計画通りです。

同じような質の研究を(もちろんテーマは違っても)日本でできたかと言えば、それはできたと思うけれど、僕にとってアメリカで大学院生活を過ごしたのはもっと文化的・精神的な意味で得難い経験になったと思います。何と言っても海外生活は楽しい。日本の人たちとは全然違う考え方を持つ人たちと日々触れ合うことができるというのが僕の考える留学のもっとも大きなメリットです。世界には日本人以外の人たちがいる、というのは日本でも日々ニュースを見ていればわかることだけれど、そういう人たちを実感として知るのはやはり実際にそういう人たちと会って暮らしの一部を共有して行かなければわからないことが多いと思う。もう一度学部の頃に戻って大学院に出願することになったら間違いなく外国の大学院に出願すると思う。イリノイの大学院で良い指導教官に会えたのは非常に幸運だったけれど、それは日本かアメリカかあるいは他のどこかというのとはおそらく別の問題でしょう。

そんなこと書いてみたけれど、でも、イリノイに来てから物性物理に対する見方がだいぶ変わったのも事実です。これはアメリカだからということよりもむしろ学部から大学院で違う場所に移ったからだと思う。(あるいは、もしかしたら単に学部から大学院に上がったからだけなのかもしれない。)どう変わったのかというと、なんだか学部のときには物性物理は最先端ではコンピュータによる数値計算(もしくは対極として特殊な模型による厳密解の研究)が必須になっているという勝手なイメージを持っていたけれど、イリノイで物性理論をやっている人たちで(量子Monte Carloや、あるいはFortranやCなどを使った何らかの)数値計算を日常的に使っているのはせいぜい2つか3つのグループで、他の大部分のグループは別に数値計算をせずに結果を出しているように感じています。(僕がいま数値計算を日常的に使っているグループとして頭に浮かべているのはCeperleyのグループとDahmenのグループ、あとおそらくGoldenfeldのグループです。)Green関数法すらあまり人気がないというのにも驚きました。(以前も書いたけれど、僕がFetter&Waleckaを読んでいたら、「そんなGreen関数法みたいな前時代的なものを学んでどうするの?いまどき誰も使ってないでしょ。」と本気で言われたことがあります。Leggettは「Green関数法が本質的な物理の理解に寄与したことはない」と言ってGreen関数法が嫌いだと聞きました。)違う場所では違う物理の雰囲気があるようです。ということで、いろいろな物理を知るためにも学部から大学院で違う場所に行くことはお勧めです。

でもイリノイでの大学院生活に不満があったのも事実です。一番大きな問題は、研究を議論できる相手がボス以外にどうも見つからなかったということでした。気軽に日常的に研究の話あるいは物理の話をできる人がいなかったため、研究生活はなかなか孤独でした。(どういうわけか同じグループの中にも研究についての話ができる人はいませんでした。)ボスも丁寧に学生を指導するタイプというよりもどちらかというと放置で、具体的な研究テーマを与えるということもしない人だったこともあってか、研究を始めた当初はなかなか進みませんでした。まあ、今になって考えてみると地力というか一人で研究する力は養われたと思うし、そんなにネガティブな側面ばかりではなかったのかもしれません。しかし、たまにサマースクールに行ったり日本に帰って本郷にお邪魔していたりするときはいろんな人と物理の議論ができることが実に楽しかったので、やはり議論できる相手がいるにこしたことはないでしょう。結局Urbana-Champaignにいる間に論文を6本書いたけれど、どれもボスとの二人での共著でした。他の誰とも論文を書いたことが無いというのは、ちょっと不自然かなあとも思います。次に行く場所では是非いろんな人と研究について話ができたら良いなと思っています。(おそらく、次に行く場所では、それが可能だと思う。)

物理の話はこれくらいにしておきましょう。最初にも書いたけれど、Urbana-Champaignに来て一番良かったとのはいろんな人たちと出会えたことだと思っています。特に、アメリカに来て最初の2〜3年はほとんど日本人との交流が無く、日本語の本は読んでいたけれども日本語を発声するのは実家との電話あるいは一時帰国中のみという状況が続いていました。(当初は一時帰国した時に、周りの人が日本語を話して自分も日本語を話すのが実に奇妙に感じられていました。)そういう新しい環境に身を置き、いろいろな価値観に触れることは非常に大きな刺激になりました。アメリカに来て初めて神様を信じている人やベジタリアンや同性愛者や進化論を信じていない人に会いました。アメリカに来るまでユダヤ人とイタリア人とスウェーデン人の外見上の違いなんて全くわからなかったけれど、今ではだいぶわかるようになってきました。(それよりもあるタイプの中国・韓国人と日本人を見分ける方が難しいかもしれない。)ただ、黒人の知り合いはできませんでした。なぜだろう。物理学科同期45人中黒人は1人だけで、人種のサラダボウルのアメリカと言えども物理で黒人はまだまだ少数派のようです。ともかくも、僕の(まだ終わっていないけれど)20代における価値観の変化・形成は多様な考え方の存在に実感として気づくということがメインテーマだったように感じています。一番身近に影響を受けたのはもちろんアメリカ的価値観だと思いますが、しかし、イリノイ大学の雰囲気がアメリカ的価値観を代表するような場所なのかというとそれも違うのかもしれません。そもそも代表的アメリカ的価値観なんてないのかもしれない。様々な価値観が混ざり合うこともせず反発することもせずにただそこにある、という状況を僕はアメリカで見てきました。僕がアメリカに来て初めて神様を信じている人に出会ったように、逆にイリノイで会ったアメリカ人やメキシコ人の中には僕と会って初めて『神様はいるのだろうか』という問いを発することすらせずに神の不存在を当然のこととみなしている人間と会ったというようなことを言っている人もいました。世界は多様であるからこそ面白い。僕は世界中の人は決して分かり合えないし、世界から宗教上のあるいは思想上の紛争がなくなることはあり得ないと思っているけれど、その考え方はアメリカに来てから徐々に形成されていったような気がします。(もちろん紛争が無くなればそれに越したことはないんだけれど。)イスラム教徒の友人は進化論者は頭のおかしい人たちだと言い、無心論者の友人は進化に神が介入しているなんて考える人は頭がおかしい人たちだと言うけれど、その両方とそれぞれ話しているとそれぞれ非常に聡明な人たちでどちらも頭がおかしいはずはなく、単に考え方に譲歩できないほどの違いがあるというだけでした。あるいは、共産主義者の友人は市場の自由競争をサポートする人たちは気が狂っていると言い、保守的な資本主義者の友人は共産主義なんて歴史が否定した制度を未だに擁護する人たちは悪魔に取り付かれているに違いないと言うけれども、どちらもそれぞれ聡明な人たちでした。要するに人間は自分の通過してきた環境や育んできた考え方によっていかに世界の見方が規定されてしまうのかということを強く感じた6年間でした。もちろん環境によって見方が大きく制限されてしまうのは僕自身も例外ではないけれど、自分の考え方がどういう制限を持っているのかはどうも自分ではわかりにくいので、いつも他人の指摘で気づかされています。なんだか、ありきたりなことを長々と書いてしまったような気がします。段落を変えて、英語についてです。

一般的に言って、アメリカ留学の最も直接でわかりやすいメリットは英語の上達かもしれません。僕の英語は確かに上達したと思います。最初は近くの店で水を1本買うのも冒険だったけれど、今では役所に行って多少面倒な交渉も別段億劫に感じずにできるようになりました。(もっとも、役所での交渉は何語であっても億劫なときはありますが。)英語の本も昔よりも気軽に読めるようになったけれど、でも英語に関しては渡米当初に期待していたほどには上達しませんでした。アメリカに行ってただ漫然と暮らしているだけでは英語は一定水準には達するけれども、それ以上には上達しないのだと思います。本当に英語を使えるようになりたければアメリカの生活の中で日々英語の勉強を絶やさないことが必要だと実感しました。未だにやはり英語の本を読んでいるとわからない単語はそこここにあって、辞書無しでも本のあらすじを追うことにそれほどの困難はないけれど辞書がなければ本を隅から隅まで(少なくとも英語に関しては)読める状態になっていないので、満足ができる英語のレベルには達していません。同じ本の英語原書と日本語訳があったらつい日本語訳に手が伸びそうになって英語原書を結局手にし、そしてよくわからないまま英語原書を読む、というのが現状です。とは言っても、渡米当初よりも格段に上達したのは間違いありません。周りのアメリカ人の友人らの何人かからは、僕の英語は大学院入学当初より格段にうまくなって現在ではほとんど不自由無く流暢に話す、と言われたこともあるのでおそらく客観的に言っても英語の上達は明らかであったのだと思います。(あるいは単に渡米当初いかにひどかったのかということを示しているのかもしれません。)この英語の上達は端的に大学院留学をした大きなメリットだと思います。しかし、結局冠詞の用法は体得できないままでした。特に、いつ"the"をつけるべきでいつつけないべきのかは未だによくわかりません。これからは英文を読むときに意識的に"the"の用法に気をつけながら読んで慣れていかなければいけないと思っています。まあ、とにかく英語の習得はアメリカ留学の一つの目的であり、それは十分に達することはできなかったけれども顕著な結果がでたことは確かなのである程度の意味はあったのだと思います。

そんな6年間でした。次は9月からイタリアで2年間ポスドクをすることになります。機会を見つけて今までとは少し違う研究もしてみたいんだけれど、さてどうなることか。加えて、イタリア語・イタリア文化をどれだけ身につけることができるかが勝負です。
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アメリカ生活も残りわずかとなりました。だいぶ部屋もすっきりしてきて、街を歩いているときも、ああ、こことももうお別れかあ、なんて考えてしまいます。

ところで先日近くの本屋に行ったら、面白い本が売っていました。"Get Jiro"というアメコミです。世界には食品産業しか残っておらずシェフたちが世の中を牛耳る近未来のロサンゼルスが舞台で、Jiroという寿司職人が地域の二大レストラン勢力に挟まれて騒動が起きる、という内容。
Get Jiro! (amazon.com)
あまりにも怪しい表紙に惹かれて初めてアメコミを買ってしまいました。
Jiroが寿司屋で寿司を握っているとアメリカ人たちが現れて、そのアメリカ人たちが大量のわさびが入った醤油に寿司をべちゃっとつけて食べながら「カリフォルニア・ロールないの〜?」とか言ってるとJiroが怒って包丁でそのアメリカ人の首をはねる、という衝撃のシーンから始まります。このマンガ、かなりグロいです。高級レストランを牛耳るBobの率いる勢力とベジタリアンをリードするRoseの勢力が共にJiroを自分の勢力に組み込もうとしていろいろ画策し、争いが起きます。かなりアメリカな話なんだけどたまに謎な日本っぽいものが入り込んでいる面白いマンガです。「これは長野県木曾谷のヒノキだね。」とか「この包丁は鎌倉時代の吉光の短刀だね。美しい。日本史上最高の短刀鍛冶だ。」なんてセリフがあったりします。戦いのシーンではJiroはマグロ包丁で戦ったりします。(原文でMoguro Bochoって書いてあってなんだろうと思った。)最初は読んでいてなんだか気持ちが悪かったけれど、そのうち慣れてきて、今読み返すと妙な味わいが感じられるようになってきました。当初は読み終わったらアメリカで誰かにあげてしまおうかと思っていたけれど、なんだか愛着が湧いてきたので日本に持って帰ろうかな。
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中国人の友人らと話していて、なぜイリノイ大に(というかおそらく一般的にアメリカの大学・大学院に)日本人の留学生が少ないのかという話になりました。

彼らによると、中国ではアメリカの大学ではまあとにかくハーバードが一番有名で、金持ちや政治的有力者は子供をほとんどみなハーバードを初めとしたアメリカの一流の大学に留学させる、とのこと。なぜかというと、いくつか理由があって(これはそのとき僕と話していた中国人の考える理由だけれど)、中国の一流の大学に子供を入れようとすると過酷な入試を突破しなくてはならず、金持ち・有力者の子供といえども必ずしも良い大学に入れるとは限らない。それに対してアメリカの大学は大口の寄付を行ったり有力者のコネを使えば良い大学に楽に入ることができる。それならば、アメリカの一流大学に入らせる方が確実だし箔もつくからそういう選択をする、というのが彼らの話すところでした。あと、政治的有力者の場合は自国(中国)での失脚の可能性に対する保険もあるのだろうと言っていました。というのは、中国では有力者も常に失脚とは隣り合わせなので、妻や子供をアメリカに住まわせておけば、仮に中国で失脚し居場所が無くなったとしても家族を頼ってアメリカの亡命をすればその後暮らしていけるから、などとも言っていました。これらがどこまで真実かわからないけれど、まあ、僕の中国人の友人の考えはそのようでした。

政治的失脚の危険はともかくとして、日本でも金持ち・有力者はいるだろうから、そういう人たちの子供はどうして中国人のように財力・コネを使ってアメリカの一流大学に留学しないのか、と聞かれました。金持ち・有力者は東大にコネを使って裏口入学できるから、わざわざアメリカに来る必要は無いのか、とも聞かれました。東大の裏口入学はおそらくほとんど不可能だと思うよ、と言ったけれど、いや、そんなことはないだろうと言われました。東大というか日本の国立大学で裏口入学はあまりあり得ないと思うけれど、まあ、そう思うのは僕がナイーブすぎるからなのかもしれない。それはとにかく、日本の金持ち・有力者が有名大学に子供を入れようとする場合は一体現状どうしているのだろう。考えてみたことも無かった。

彼らと話していて強く感じたのは、中国人のアメリカ志向です。外国への留学となれば、ほとんどアメリカが唯一の選択。カナダもあり得るけれど、ドイツ・イギリス・フランスなどのヨーロッパあるいはその他の国々はほとんど選択肢にないと言った雰囲気。まあ、その気持ちは正直良く分かります。アメリカの大学の方が他国の大学よりも留学生に対してオープンで、情報も集め易い、仕組みも分かり易いし、留学に対する敷居が他国よりもずっと低いと思う。

もう一点、僕が感じたのは、というか、これは中国人・韓国人・そして日本人と留学について話す時僕が常々感じることなんだけれど、「中国人・韓国人はこんなにアメリカに留学しているのになぜ日本人の留学は少ないのか」という疑問が当然のものとして発せられるということ。こういう問いが自然に発せられるのは理解できるんだけれど、同時に、僕はこの問いが当然だとは全く思えないのです。しかし、このような問いは僕が先日話した中国人だけではなく、多くの日本のメディアでも発せられているように感じます。そこから「最近の日本人の内向き志向は云々」という議論とつながる。イリノイの物理学科を見れば留学生では中国人が圧倒的に多く、次はおそらく韓国人。イラン人も結構多い。日本人は非常に少ない。この状況では上記の問いは一見自然なものに思えるけれど、しかし、少なくとも僕の知る限りではイリノイ物理学科にイギリス・フランス・ドイツ・イタリア・オランダなどからの留学生は存在しません。僕の個人的感触では、日本の物理の研究レベルはこれらの西欧諸国と比べると勝るとも劣らない。西欧諸国からアメリカへの留学生が日本に比べても圧倒的に少ないというのは一体何を意味しているのだろう。これに関して先日ハーバードの学長のインタビューとされている文章をネットで見つけました。
留学生減少は「日本の危機」 - 三万人のための総合情報誌『選択』
この学長は「イギリス、フランスは確かに留学生は少ないが、ハーバードはそもそもイギリスの伝統をアメリカでも継ぐために創設されたから、イギリスからハーバードに留学する意味は、アジアから留学する意味と比べるとはるかに少ない。」「それは決して欧米との質の高低を意味するのではなく、文化、思考法が欧米とは異なるということだ。文化が異なる国からの留学生が減るというのは、学生にとっても決して望ましいことではない。 」と言っている。ブログで人の悪口は書きたくないんだけれど、残念ながらこの発言はあまりにも浅はかと言わざるを得ない。アメリカから日本への留学生は日本からアメリカに留学する学生に比べ遥かに少ない。もしこの学長がこれを問題と看做し、アメリカの学生も中国の学生のアメリカ留学熱を見倣い、どんどんアジアの諸大学へ留学すべきだ、と提言するならば、それは立派なことだと思うけれど、上記の発言からはそのような考えはみじんも読み取れない。この学長の発言からは、アジアの学生はアメリカの大学に学びにくるべきだと言う一方向性しか感じられない。

アメリカ人の内向き志向は、日本人に比べるとずっと強い、というのはイリノイで感じることです。日本人の留学が以前よりも少なくなっているとは言っても、なんとなく留学をしてみたいと思う日本人は結構多いように感じます。一方、アメリカ人と話していると、数ヶ月程度の短期なら良いけれど、数年単位の長期の留学はしたくない、百歩譲ってイギリスならまだ良いけれど、言葉の通じない外国に留学は嫌だ、という意見を聞くことが多いです。(というか、僕は、短期でない留学をしてみたいと言っているアメリカ人に会ったことがありません。留学なんてあり得ない、と言っているアメリカ人は何人か知っています。)実際、日本でも、ヨーロッパからの留学生はしばしば見かけるけれど、アメリカからの長期間の留学生はそれらに比べるとぐっと少ないように感じます。

僕は個人的には日本からアメリカへ留学する学生が減っているのは、自国の(日本の)教育の質が上がっていることの証拠であり、良いことだと思っています。(もちろん、この主張を確かめるには、留学生が減少し、かつ、日本人の知的レベルが減少しないことを確かめなければいけないのですが。)この意見に反対する人は多いだろうけれど、まあ、いろんな意見があるでしょう。もちろん一定数の留学生がいることは良いことだとは思います。しかし、アメリカという国は巨大過ぎるし、アメリカ人の極度の内向き志向もあって「日本人の留学」を考える上であまり向いていないんじゃないかと僕は思っています。比べるべきは他のアジア諸国やヨーロッパ諸国で、それらの国に対する留学生、あるいはそれらの国から日本に来ている留学生の数を調べ、それらの数を議論する方が健全な留学の議論ができるんじゃないか、と思っています。
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僕は無神論者で全くキリスト教徒ではないのだけれど、聖書には昔から興味があって、そういえば小学生の頃に塾に聖書を持って行ってそれ以来しばらくあだ名が「聖書」になっていたことがありました。

最近アメリカ人でキリスト教徒(正教会、これは珍しい)の友人から英訳聖書(NASB)をもらったのをきっかけに英訳聖書についても興味が湧いてきてつい調べてしまったのでそれを忘れる前に書いておこうと思います。間違ったことを書いていたらすみません。

まず、聖書の現代風の英訳には意訳と逐語訳の二種類があり、意訳は原文の「意味」を伝えるように翻訳し、逐語訳ではなるべく翻訳者の解釈を介在させずに原文のことばを「そのまま」翻訳するようです。もちろんどちらも一長一短があるようで、意訳の問題は翻訳者の解釈が意図せず(あるいは意図して)入り込んでしまって原文の意味をゆがめてしまう場合があり、逐語訳の問題は訳文が必ずしも自然な英語にならず読みづらい物になってしまうようです。逆に言うと意訳の短所は逐語訳の長所であり、逐語訳の短所は意訳の長所になるようです。実際にはそれぞれの英訳聖書は意訳か逐語訳の両極端とは限らず、その間の適当なところで落ち着かせているようです。
意訳と逐語訳の違いの例は、例えばJohn 6:7に逐語訳寄りの聖書(NASV)で"two hundred denarii"(200デナリ)という貨幣の単位が出てくるのですが、これが意訳寄りの聖書(New International Version, NIV)では"more than half a year’s wages"と、デナリという単位がわからない人にも意味がわかるように労働力換算がしてあります。これは分かり易い例ですが、もっと細かいところで様々な違いがあって、意訳と逐語訳を読み比べると受ける印象は大きく異なります。

そして、個々の翻訳ですが、まず最初に挙げなければいけないのがKing James Version(KJV)あるいは日本語で欽定訳聖書と呼ばれる1611年にイギリスのジェームズ一世の命令で編集された翻訳。これは以後長期間にわたって英訳聖書の決定版として用いられており、20世紀初頭に至るまでほとんど唯一の英訳聖書として読まれてきて現在でも大きな影響力を持っているようです。翻訳の方法はどちらかというと逐語訳寄りのようですが、17〜19世紀の当時は比較できるレベルの翻訳が実質存在しなかったため、あまり逐語訳か意訳かということが取りざたされることはないようです。そんな権威ある翻訳ですがいかんせん昔の翻訳なので英語が古く、現代の英語話者が読むのは大変難しいようです。そして、さらに問題なのは、17世紀以降に発見された古い聖書の写本(これには死海文書も含まれます)や、最近の聖書学の知見が全く含まれていないため、内容も現代的観点からいろいろ批判があるようです。このような問題を解決するために19世紀後半から今に至るまで様々な他の翻訳が出ているのですが、何しろKJVは昔から権威を持って読まれてきたために今でも少なからぬ教会で読まれており、さらに熱狂的なKJV信者も存在するようです。このKJV信者の存在は非常に面白いので、後でまた書きます。KJVは僕もいつかどこかで手に入れなければいけないなあと思っています。

さあ、そして他の翻訳ですが、僕もいろいろな翻訳を見比べているわけではないのであまり多く取り上げられないのですが、いくつか代表的なものを取り上げます。

まずは僕がもらったNew American Standard Bible(NASB)。これはどうやら現在もっとも信頼されている逐語訳形式の聖書のようです。この聖書を読んでいて良いなと思うのは、本当に原文に忠実に訳そうとしているところです。例えば、原文をそのまま訳すとどうも英語では意味が通らないという部分があるといくつか言葉を足すなどして翻訳しているのですが、その場合は足した言葉がイタリックで書いてあるため、どこまでが原文に存在する言葉でどこからが翻訳者が足した言葉なのかがわかるようになっています。NASBを読んでいると本当に原文をフォローしているような感じがするので、なんだか一段深いところで聖書を読んでいる気がしてきます。あと、僕がもらったのはreference bibleで、本文に対して細かい注が付いています。と言っても特定の解釈をするための注釈ではなく、聖書の他の部分の参照や、翻訳上の機微が書かれています。たとえば、原書に使われている表現をそのまま訳すと"on my feet"になるけれど、それでは英語としてあまりに不自然なので"on foot"と訳してある、などの情報が注に書かれています。この翻訳は僕の性格に非常に合っていたと思う。そんなNASBだけれど、やはり逐語訳特有の英語の難しさ・堅苦しさがあり、アメリカ人でも高校2年生以上(11年生以上)レベルと言われているようです。ちなみにKJVの英語は(日本ではなく英語話者の)高校3年生以上のレベルです。

他にも広く読まれているものにNew King James Version(NKJV)やNew International Version(NIV)があるようです。NIVは意訳寄り、NKJVはNIVとNASBの間くらいの逐語訳・意訳の混ぜ具合のようです。昨日、本屋に行ってみると本屋に並んでいるのはほとんどがNIVでした。現在アメリカでもっとも売れているのはNIVだという話もどこかで読みました。NIVは現在もっとも信頼されている意訳聖書だそうです。実際に少し立ち読みしてみるとNIVの方がNASBよりも遥かに分かり易い英語で、これが売れるのは納得です。原文が"on my feet"なのか"on foot"なのかなんてことにはこだわらない人にはNIVの方が良いということは間違いないと思いました。しかし、NIVについて調べてみるとどうも去年(2011年)に改訂があったらしく、この改訂に文句を言う人も多いようです。というのも、性差別的な表現を避け、中性的に訳す方針にしたようで、NIVの以前のバージョンでheや書いて一般的な人を表していたのを改訂版ではthat personやtheyに変えたりしたそうです。他にも、menで一般的な人を表すのを避けたて別の表現で言い換えたりしているようです。この改訂には批判的な人もいて議論があるようです。僕は、NIVはどうせ意訳とわかりやすい文章を心がけている翻訳であって逐語訳ではないのだから性差をなくす翻訳をするのは構わないと思うのですが、まあ、みなさんいろいろ意見があるようです。

NKJVや他の翻訳については僕は見たことが無いので何とも言えないのですが、世の中には様々な英訳聖書があるようです。ここに紹介したKJV、NASB、NIV以外にもそれぞれの人の性格と興味とニーズに合わせていろいろな翻訳が出ているようなので、英訳聖書に興味がある人はいろいろ手に取ってみて見ると良いと思います。

最後に、KJV唯一主義者について少し書いてみます。KJVというのは先に書いたように長く読まれてきた名訳で、今でも多くの人に読まれていて僕もそのうち是非とも読んでみたいのだけれど、中にはあまりにもKJVにこだわってしまい、その他の翻訳は全て間違っていると主張する一団がいるようです。その考え方をKing James Version Onlyism略してKJVOなどと言って、彼らの考え方の根底には、聖書というのは神が与えた言葉であり、その翻訳も神の意志・助けを通じて世に出てくるものであって、そこにかかれている言葉は基本的に一言一句正しいものであるという信念があります。聖書が一言一句正しいのであれば、様々な英訳聖書のどれも一言一句正しいということはあり得ず、どれかが完全に正しくて他は少しずつ間違ったものであるということになります。そしてどれが正しいのかということを考えた時、17世紀から連綿と読み継がれてきたKJVこそ神の意志と保護が入っている正しい翻訳であるということになるようです。もちろんKJVは大多数の聖書学者から見ると古い翻訳で、新しい原典写本の発見や研究の進展とともに間違いも見つかっているのだけれど、KJVOの人たちに言わせればむしろ新しく発見された原典写本の方に問題があり、KJVの翻訳の元となった原典こそが正しい原典ということになるそうです。言い換えれば、原典が正しいかどうかは、その原典がKJVの翻訳と合致するかどうかで判断されるという、一見(そしておそらく本当に)、逆転した考え方にまで至っているようです。僕がKJVOについて知るに至ったのは、NASBについて調べている最中に、NASBの翻訳責任者の一人と称する人がNASBの翻訳を振り返り、NASBの翻訳は間違った行為であって反省しており、KJVこそが唯一正しい翻訳だ、と称している文章をネット上で見つけたからでした。なんだかおかしいなと思ってそれについてさらに調べるとどうやらその翻訳責任者の一人と称する人は実際にはNASBにはほとんど参加しておらず、KJVO側からの策略的な意味合いでNASBの批判を行っていたようだということがわかりました。こうなるともうなんだか内ゲバの様で面白いと思いました。ネットにはKJVOの人たちの書いた物はあちらこちらにあって注意しなければいけないんだけれど、KJVOの人たちは「正しい聖書の翻訳はどれだろうか」とか書いてKJVを推薦したり、他の翻訳をこき下ろしたりしていて慣れればすぐ見分けがつきます。こういう人たちがKJV自体のイメージまで低下させているようなのはなんだか悲しいことだと思いました。

なんだかいろいろ書いてしまいましたが、特に結論のある文章ではありません。最後まで読んでくれた方、お疲れさまです。そして、ありがとうございました。
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