Vie Quotidienne
2016-08-19T17:46:26+09:00
t_oz
Università di Trentoで物理のポスドクをやってます。専門はCold atomの理論。
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スペイン
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2016-08-19T17:46:30+09:00
2016-08-19T17:46:26+09:00
2016-08-19T17:46:26+09:00
t_oz
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なぜ審査委員をすることになったのかというと、審査される学生の指導教官(当時はまだ会ったことがなかった)からある日突然「審査委員をやってくれないかと」というメールが来たからです。よくよくもとをたどってみると、その指導教官が最初はトレントでの僕のボスに依頼をしたところ、彼が諸事情で行くことができず、僕のことを推薦してくれた、ということであったらしい。その学生自身はトレントに半年程度滞在していたことがあって、僕と一本共著論文を書いていたこともあり、僕もよく知っている人でした。彼はやむをえぬ諸事情があって博士論文を書き上げるのがだいぶ遅れてしまい、ようやく審査までこぎつけたという背景があったので、僕としてもトレント側の人間として彼の審査を見届けたいという気持ちもありました。
D論の審査というのは国によってそして大学によってそれは様々な制度の違いがあるようです。イリノイ大の場合は審査委員は指導教官を含む4人のイリノイ大の教官によって成り立っていました。イタリア・トレント大学の場合、指導教官は審査委員に含まれず、トレント大学から1人、そして他の大学から2人准教授レベル以上の地位の人が審査委員として審査にあたるようです。他の大学からの審査委員は多くの場合他国から選ばれていて、EUとも限らず、アメリカやオーストラリアから審査に来ていた人もいました。さて、スペインのマドリード自治大学の場合は、指導教官は審査委員になれず、総勢5人の審査委員が審査にあたります。僕はポスドクですが、それでも問題はないようでした。問い合わせてみたところ、「履歴を見て、審査委員にふさわしいと大学が判断すれば常勤ポストについていなくても構わない」ということでした。僕以外の4人のうち1人はフランスCNRSの所属で、これは大学ではないのですが、それでも大丈夫ということです。大学所属でなくても、常勤でなくても、まあ構わないというフレキシブルな制度ですね。
さて、審査委員に1人フランスCNRS所属の人がいると書きましたが、彼は僕の旧知の友人というか共同研究者です。審査委員の依頼が来た時、僕はイギリス・エジンバラの学会に参加していて、彼とはホテルで部屋をシェアしていました。ということで、ホテルの部屋で「お前もあいつの審査に行くのか」みたいになったのですが、彼はフランスで仕事はしていますがスペイン人で、スペインのD論審査事情にも詳しかろうと思っていくつか基本的なことは聞いておきました。彼によると、スペインでD論審査をする場合、よほどのことがなければ落ちない。落ちるレベルのD論だった場合は、審査当日に落とすようなことはせず、それ以前に何らかの形で本人に伝え、書き直すか審査を延期するかするということでした。これは、(噂によると)平気で落とされたりメジャーリビジョンになったりするイギリスのクローズドなD論審査とはだいぶ違って、どちらかというとイタリアの審査に近いです。また、それなりにフォーマルなので、「ジーンズにTシャツ」みたいな服装は避けたほうが良いとのことでした。考えた末当日はノーネクタイのスーツという格好で行きましたが、これは概ね合ったいたようです。
審査の一ヶ月前に、学生からD論のPDFコピーが送られてきました。これを読んで審査する、というのはまあどこの国でも同じでしょう。希望者には紙のコピーも配ります、とメールには書いてあったのですが、スペインからイタリアへモノを郵送するとどれくらいかかるかわからないので、こちら側で勝手に印刷して簡易製本して読みました。
マドリードに行くのは初めてだったので、行って、審査して、とんぼ返り、みたいな感じではもったいないと思って、研究と観光合わせて4泊することにしました。審査の前日の午前中に僕を呼んでくれた教官の人と議論したのですが、その人は僕のイリノイ時代の研究について結構詳しく勉強したことがあったようで、その時の研究についていろいろと話しました。というか、僕のイリノイ時代のかなりテクニカルな研究をそこまでフォローしている研究者に初めて会ったのですごく嬉しかったです。なんだ、僕の論文もわかる人が読めばちゃんとわかるんだなあ、と感激しました。夜は、そのマドリードの教官と、フランスCNRSの共同研究者と、あと翌日の審査に委員として参加する予定のマドリード自治大学の教授2人で食事をしました。スペインは食事が遅いようで、午後8:30からレストランに予約していたのですが、午後8:30というのはそのレストランの夕食の開店時間でした。ちなみに、午後8:30に開店するのはなかなか早いようです。
さあ、翌日の審査です。非常に注意深くこのブログをここまで読んだ読者は、審査委員5人のうち1人まだ登場していないことに気づきますが、そのもう1人の審査委員はマドリードの別の研究機関の研究者で、僕は審査当日に初めて会いました。まあとにかく5人の審査委員があつまり、委員長が事前の説明をします。印象的だったポイントは、D論審査はあくまで試験なので、学生の発表後に拍手などはしない、ということです。あと、D論審査には評価がつくようです。評価というのは、日本語でいうと「優・良・可・不可」みたいな感じです。評価というからには何らかの基準が必要ですが、どうやら最近はほとんど「優」が与えられる、とのことでした。説明をしてくれた審査委員長はたぶん70歳くらいですが、彼のキャリアの中で「優」以外が与えられたD論は確か5つくらいしかなかった、とのことです。しかし、この評価とは別に「cum laude」かどうか、というもう一段階別の評価があります。この「cum laude」は、特別優秀、というのを意味しますが、マドリード自治大学では80%以上の学生がこれを取得する、とのことです。
こんな説明を受けた後は、D論審査の部屋に行きます。そこには学生が発表の準備をして待っていました。審査委員5人はなぜか一段高い場所に座って発表を聞きます。まずは確か40分くらい学生が説明をし、審査委員は質問をはさまずじっと聞いています。発表が終わってからは審査委員の質問タイムです。いくらでも質問していいし、指導教官も事前に「容赦なく質問して」と言っていたのですが、まあだいたい一人当たり10〜15分くらいで、5人合わせて一時間くらい質問があったように思います。ちなみに、発表も質問も全て英語です。質問タイムが終わったら、審査委員以外は部屋を退出して、審査委員が部屋の中で話し合います。先述の通り「優・良・可・不可」と「cum laude」かどうか、を話し合うのですが、「優・良・可・不可」と「cum laude」の決定的な違いは、前者は審査委員5人すべての明確な合意で決定するけれど、後者は審査委員の覆面投票で決定するということです。どういうことかというと、「優・良・可・不可」は審査委員が「ではみなさん、優ということでよろしいでしょうか」「よろしい!」「賛成!」みたいな感じで決定するんだけれど、「cum laude」に関しては一人一人が紙にcum laudeを与えるかどうかを書き、それを他の人には見えないように箱に入れ、その箱を後日開封して全員がcum laudeに賛成だった場合はcum laudeが与えられ、もし1人でも反対がいた場合cum laudeは与えられない、ということでした。そういえば、まだ後日の開封結果を聞いていないので、彼にcum laudeが与えられたかどうかは知りません。
こんなことを一通り話し終わった後、学生が部屋に招き入れられ、審査委員長が「厳正なる審査の末、あなたに博士号を優の成績で授与することが決定されました。おめでとう!」みたいなことを言ってなにか証明書みたいなのを学生に渡しました。ここでようやく拍手があったような気がします。
この後、別の部屋に学生が軽食を用意しており、それをみんなでつまみました。軽食の後は、審査委員の5人+学生+学生の指導教官の7人で近くにフォーマルなランチを食べに行きます。長いランチが終わったのはだいたい4時くらいだったかな。D論審査及びそれに付随したイベントはこれでだいたい終わりです。夕食は学生と学生の友人たちに混じって行きましたが、これは審査委員としてというよりも、1人の友人として行ったという感覚です。しかし、この日はだいたい一日中なにか食べていたような感じです。
マドリードは面白かった。食べ物は美味しいし、街は活気があるし、楽しかった。そのうちまた行ってみたい。]]>
だいたい今年あったこと
http://rimbaud.exblog.jp/23369962/
2014-12-01T07:05:00+09:00
2014-12-01T17:36:19+09:00
2014-12-01T07:05:25+09:00
t_oz
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イタリア生活も2年以上が過ぎました。来た当時の新入り時代とはだいぶ変わって、研究所では古参ポスドク的な位置づけになってきている気がします。今の契約は来年の夏までなんだけれど、さらに3年更新を打診されているので、このまま万年イタリアポスドクとなる勢いです。まあ、こまめに次の仕事を探さなくていいのはとても楽です。
研究のことを書くと、最近はcold atom及び光の系でのトポロジカル・幾何学的な物理の研究をしています。イタリアに来るときにはトポロジカルな物理をやることになるとは思っていなかったけれど、やってみれば結構楽しいものです。
今年は、結構トレントを離れていた時期がありました。
まずは、パリに3週間くらい行っていました。パリ(というかその郊外のMarcoussis)には実験家と共同研究するつもりで行ったんだけど、その実験家がサンプル作成に手間取ってほぼ最終日くらいでようやく実験開始みたいになってあまりお手伝いできず申し訳なかった。まあ、サンプル作成に手間取ったのは向こうなので、僕が申し訳なく思う必要はあまりないんだけど。実験の(理論的)手伝いは出来なかったけれど、別の研究をその人たちと始められたのでよしと思っています。(でもその研究は今はちょっと頓挫中。)その実験家さんには非常に良くしてもらっているので、いつかなんか仕事で恩返しをしたいと思っているけれど、どうなるかなあ。まあ、とにかくパリはフランスパンが美味しかった。
次に、次期東大総長がオーガナイズした研究会に出席するため、日本に3週間くらい行っていました。それとは別に日本で何ヶ所かでセミナーもさせてもらいました。トポロジカル物理の基本的な共通理解を知らずに論文を書いて、それについて話をしたら、いろんな人からその結果はトリビアルだ何が新しいんだと言われて少し自信をなくしました。ヨーロッパで話をするととってもうけがいいんだけどね。日本の物理の世界はシビアです。まあ、でも、第一稿は確かに僕らの書き方が悪かった。出版されたバージョンは日本でのシビアなコメントを取り入れているので、だいぶ良くなったと思う。この論文は、しかし、非常に評価のわかれる論文のようで、レフェリーの一人は、この論文は非常に画期的で後に続く論文が次々と出てくるだろう(大意)、と言ってくれた一方、他のレフェリーには、この論文には新しい結果が皆無でこの論文が科学雑誌に載るとは考えられない(大意)、と言われたりしました。論文の受け取り方は人それぞれで面白いです。
あとは、イギリスにも2週間くらい行っていました。これは、半分仕事、半分休暇です。仕事で、初ケンブリッジ。応用数学の学会に行ってきました。行ってすぐに僕は場違いだということに気づきました。なんと言っても、参加者は応用数学者、考えている問題は一見物理の装いなんだけれど、モチベーションが完全に数学で、問題設定あるいは結果の物理的な面白さはほとんど気にしていないようだったのが新鮮でした。なぜある形のハミルトニアンを考えるのか、と質問したら、「こういうハミルトニアンを考えている物理学者がいるから」と答えられたのが何度かあって物理学者としてとても考えさせられました。ある発表では、相互作用が(ある単位で)1000って言っていてなんだか適当な感じだったから、「その強さは物理的に適切なんですか」って聞こうかと思ったけれどたぶん場違いな質問なのでやめた。おそらく発表者も僕以外の聴衆もその相互作用が物理的に適切かなんて気にしていない。とても不思議で楽しい学会。僕がPhDを通してやってきたスピン・軌道相互作用のあるBECの研究について発表している人が何人か居たんだけれど、僕はその人たちの研究を全く知らなかったのが衝撃的だった。PRAとかPRLとかに論文が出ているようだったので僕が知ってても全くおかしくないんだけど。他方で、僕の研究のことはその人たちには知られていないようでした。同じ研究対象で同じような雑誌に論文が載っていても相互にほとんど交流のない研究者の集団があるのだと知りました。しかし、この学会に出て以来、向こう側の人たちの論文にも気を配るようになって、それは悪いことではないと思っています。
他にも、南イタリア、サレルノ市の隣にあるVietri sul Mareという街のサマースクールにも参加してきました。10月だからむしろオータムスクールかな。スクールなので、参加者はほとんどが大学院生。ポスドクは僕を含めて2人しかいなかったです。でも、テーマはトポロジカル絶縁体で、僕のこの分野の知識は素人並みだったので、大いに学ぶところがあって良かった。というか、いろいろ面白いことが学べて非常に感動しました。休みの日曜にはポンペイに行ってきました。そう、ポンペイに近い街なのです。でも、日曜にポンペイからの帰りのバスのチケットの売店を見つけるのは至難の業でした。うろうろ歩き回って結局バス停から2kmくらい離れた場所でバスのチケットを買うことに成功。今度行く時は、前もってバスのチケットを用意して行こうと思いました。
まだ今年が終わったわけではないけれど、まあそんな感じの一年でした。]]>
久しぶり
http://rimbaud.exblog.jp/20777163/
2013-11-05T22:20:00+09:00
2013-11-06T23:04:43+09:00
2013-11-05T22:20:17+09:00
t_oz
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僕は個人的な面識は全くなかったけれど、某N氏の訃報に接して生と死についていろいろと考えてしまったここ数日です。
前回の更新は3月でしたね。それからもう半年以上経ってしまいました。その間、何があったのか。論文は3本投稿しました。トレントの研究環境ははイリノイよりも僕に合っていると感じます。特に、周りに議論できる相手が多いというのは良いですね。今年の最初に書いた論文で、ついに自分よりも50歳年上の人(Pitaevskii師)と共著を書くことができました。今までの論文は48歳年上と一緒に書いていたので、年齢ギャップをわずかに更新です。今後、これ以上の年の差で論文を書くのは(僕が年下と論文を書く、という状況を除いて)無さそうです。
他には、何があったか?学会・ワークショップでドイツとフランスへ行ってきました。ドイツはマインツ、フランスはLes Houchesです。Les Houchesは3年前にも行ったことがありましたが、ドイツは生まれて初めて。ドイツ料理はソーセージとビールばかりだと聞いていたけれど、まさにその通り、期待を裏切らないドイツです。マインツにはグーテンベルク博物館があって、そこでグーテンベルク聖書の本物を見てきました。帰ってきてから中国人ポスドクに、グーテンベルク博物館に行ってきたと言ったところ、グーテンベルクとは誰だと聞かれたので、活版印刷の発明者だと答えたところ、そんなはずはない、活版印刷は中国人が発明したのだ、と言われました。なるほどその通りです。失礼しました。
夏には、新婚旅行でギリシャへ行ってきました。アテネ・サントリーニ島・クレタ島です。アテネはアクロポリス(パルテノン神殿なんかがあるところ)や考古学博物館などはもちろん、デルフィにも足を伸ばしました。真夏のアクロポリスは酷暑で、午前9時頃にはもう日差しが強くて大変。デルフィは良かった。今では廃墟だけれど、昔はさぞかし豪奢だったのだろうと思わせる遺跡のたたずまいがとても印象的。ギリシャに行く前にヘロドトス『歴史』の最初の数章を読んで行ったところ、そこに書かれていたことが実際にデルフィの出土品などに見られて、歴史の連綿とした流れを感じることが出来ました。サントリーニ島とクレタ島は両方とも島だけれど、前者はバカンス用の小島、後者は普通の都市がある大きな島、という感じで全く雰囲気が違いました。サントリーニ島は綺麗で、美しくて、清々しく、是非もう一度行ってみたい。クレタ島は、目当てはクノッソス宮殿。クノッソス宮殿はエヴァンズ卿の修復による改変が激しく、一体どこまでがオリジナルでどこからが修復なのかわからず一々ガイドさんに聞いて回りました。これなら世界遺産に登録されないのも納得と思いました。一方、クレタ島の考古学博物館はなぜか目当ての品々(ファイストスの円盤・牛頭のリュトンなど)が改装中のため見られなくて残念。まとめ:ギリシャは良かった。いつかもう一度行きたい。今度は是非メテオラにも行ってみたい。
他には何があったか?8月にヴェローナのアレーナ(ローマ時代の円形闘技場)で野外オペラがあったので、見てきました。ヴェルディのナブッコ。野外のオペラは、円形闘技場の立体的な構造もうまく利用していてなかなか迫力がありました。行って良かった。オペラもなかなか楽しいものだ。主役(ナブッコ役)の人が出てきたときに、やけに盛り上がっているなあと思っていたら、後日調べてみたら実はプラシド・ドミンゴが主役だったことを知りました。ドミンゴだったのかあ。いいものを見た気持ちになりました。
主に旅行記みたいになってきました。他には何があったか?7月にはトレントで大きなワークショップがありました。「Summer Programme on Synthetic Gauge Fields for Photons and Atoms」という題で、cold atom及びphotonの系で有効ゲージ場の研究をしている重要な人たちが大勢やってきて賑わっていました。僕も大学院時代の主な研究テーマは有効ゲージ場中でのcold atomだったので大いに関係があります。(有効ゲージ場中でのcold atomの研究は、トレントに来てからも続けているけれど、メインテーマではなくなりつつあります。)久しぶりに元ボスとも会えました。でも、思い返して見ると僕は主にphotonの人たちと話していてcold atomの人たちとはあまり話していなかった気がします。
最近は、cold atomの研究はもちろん続けているけれど、時間の半分位をphoton、あるいはexciton-polariton系の研究に費やしています。トレントに来てcold atom以外のことにも手を伸ばしたいと思っていたところ、隣のオフィスのI氏が光の研究もやってみないかと誘ってくれたので乗ってみたところなかなか楽しくて続けているという状態です。でもまあ要するに固体電子系以外で固体電子系の延長的な多体問題を考えているという点は変わっておらず、単に対象が原子・分子か光子かという違いなので、本質的には違うことをやっている意識はありません。
そんなところでしょうか。ではではみなさん、また今度。]]>
フィレンツェ
http://rimbaud.exblog.jp/18759515/
2013-03-16T02:06:00+09:00
2013-03-16T02:08:30+09:00
2013-03-16T02:06:36+09:00
t_oz
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最近は平和な日々を過ごしていました。水曜・木曜とフィレンツェで行われた謎のワークショップに出かけてきました。トレント大学のBECセンターが所属するINO(Istituto Nazionale di Ottica)という組織の年次大会、ということなのですが、なぜか今回が一回目で、二回目があるかはまだ分からないそうです。このいい加減さがイタリアらしい、というのが最近分かってきました。INOというのは、訳すと国立光学研究所みたいになるのですが、別にそういう一つの研究所があるのではなく、いろんな場所にINOに所属する組織が散らばっている、といった感じです。トレント大学のBECセンターもその一つ。この年次大会では、INOに所属するいろんな人たちがそれぞれの研究の話をするのですが、レーザーの生物への利用や、様々な波長の光を使って美術品を調査する手法や、コンピュータビジョンや、我々のやっている極低温原子系の基礎物理に関することなどあまりに幅広い分野をあつかっていて、正直言って他分野の話は全く分かりません。(セクションが分かれている、というわけでもありません。ワークショップは一部屋。)でもBECセンターからは教授・ポスドク等あわせて10人も行ってきました。そもそも「このワークショップは学問的な意味合いよりも政治的な意味合いが強い」と聞かされていたから、まあ、そんなものなのだと思います。政治は大事なのです。コンピュータビジョンが専門、と言っていた発表者がノートパソコンとスクリーンの解像度を合わせることができず、パワーポイントの左上の部分だけ表示させて発表をしていたのが面白かった。発表者が「(解像度を合わせられず)まあ、このままやりましょう。私の専門はコンピュータビジョンで、・・・」と話し始めたら聴衆から失笑がもれていました。
年次大会では、僕の分を含めてBECセンターは計7枚ポスターを出展しましたが、そのうち5枚がメインのポスター会場から一歩入った部屋の脇に立てかけてあるついたての"裏側"に割り当てられていました。なかなか見つけられない秘密のポスターです。仕方が無いのでついたてと壁の間に人が一人通れるくらいの隙間を作り、ポスターを貼っておきました。結局ついたての裏側のポスターを見にきてくれた奇特な人は、関係者以外ではおそらく一人しかいませんでした。
そんなフィレンツェの旅の一番の収穫は、フィレンツェのアジア食材店へ行ってきたことでした。出発前に場所を事前に調べておいて、ワークショップの空き時間に街に下りて行ってきました。梅干しも豆腐も日本っぽいお米もこんにゃくもキューピーマヨネーズも売っている、素晴らしい店でした。調子に乗ってお米を3kg買ってきましたが、フィレンツェから帰る頃にはお米の袋の一つが破れ、ビニール袋の中にお米が散乱するという悲惨な状況が生じていました。
しかし、帰りの電車の中でどうも花粉症を発症してしまったようです。日本では花粉症なのですが、アメリカでは花粉症が強く出たことは無かったので外国の花粉なら大丈夫なのかと安心・油断していましたが、花粉症の魔の手はイタリアには延びていたようです。今朝お医者に行って、抗ヒスタミン剤を処方してもらってきました。困ったことになりました。]]>
Alpe di Siusi
http://rimbaud.exblog.jp/18669439/
2013-02-20T04:22:02+09:00
2013-02-20T04:21:48+09:00
2013-02-20T04:21:48+09:00
t_oz
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でも初日のお昼の食事が悪かったのか、夜はなんだかお腹の調子が悪く、ホテルのベッドで倒れていました。
翌日は思ったよりも調子が戻っていたので、今度はようやくスキー。みんな完全なスキー初心者だったので最初はどうなることかと思ったけれど、みんなだんだんと慣れてきたようでした。リフトの先に初級コースが待っているはずがなぜか中級コースしかなくて焦ったり(それも二度)、一人が転んだ拍子に指を切って雪を血まみれにしたりといった、アクシデントもあったけれど、最後にはなかなか楽しめました。そんな週末。]]>
Venezia
http://rimbaud.exblog.jp/18585009/
2013-02-11T00:12:00+09:00
2013-02-11T00:23:34+09:00
2013-02-11T00:12:11+09:00
t_oz
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トレントーベネチア各駅停車の旅は、乗り換えが無くて安い(片道約10ユーロ)という利点があるのですが、残念ながら時間がかかります。電車が時間通りに進めば約3時間15分で着くはずでしたが、今回はベネチアが混みに混むカーニバルの週末で電車も超満員電車。結局予定よりも40分近く遅れた到着でした。朝8時にトレントを出る電車に乗ったのですが、ベネチアに着いたのはほぼ正午でした。
ベネチア駅前はこんな感じ。人がすごい。
とりあえずメインの広場であるサン・マルコ広場を目指して歩くことにしました。ベネチアのカーニバルの特徴・見所はマスクを付けて仮装をした人たちです。一応のテーマ(マスクを付けて仮装をする)はあるのですが、テーマから逸脱するのは自由で、様々な仮装をした人たちが街を歩いています。ものすごい数の人なので、なかなか進みません。人ごみをかき分けかき分け途中でお昼を食べながらサン・マルコ広場にようやく着いたのは午後3時頃でした。広場は、いろいろな仮装の人たちで賑やかで楽しいことになっていました。仮装をした人たちと、その写真を撮る人たちが溢れています。完全にコスプレ大会なので、もっと日本人も参戦しても良いんじゃないかと思いました。仮装している人たちの写真をいくつか載せておきます。
サン・マルコ広場でうろうろした後は、水上バスで駅に戻ってきました。ベネチアを出たのは午後6時半ころでしたが、そのころには結構寒くなっていました。帰りはベローナ経由の速い(乗り換え時間を含めて2時間半)けれど高い(30ユーロ)電車で帰ってきました。安い各駅停車ではなかったからか、帰りの電車は空いていて、座って帰ることができました。楽しいベネチア小旅行でしたが、今度はもっと静かなときにゆっくりとベネチアを回りたいですね。]]>
パラダイム
http://rimbaud.exblog.jp/18576832/
2013-02-09T07:24:40+09:00
2013-02-09T07:24:12+09:00
2013-02-09T07:24:12+09:00
t_oz
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税務番号など
http://rimbaud.exblog.jp/18557604/
2013-02-05T19:05:29+09:00
2013-02-05T19:05:19+09:00
2013-02-05T19:05:19+09:00
t_oz
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住民登録などなど
http://rimbaud.exblog.jp/18539613/
2013-02-03T20:38:47+09:00
2013-02-03T20:38:55+09:00
2013-02-03T20:38:55+09:00
t_oz
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引越したので、ついに住民登録です。ポスドクはそんなに長期間滞在するわけではないし、イタリア人でもないなら住民登録しない人も多いのだけれど、僕は妻の滞在許可証の取得の関係もあって住民登録する必要があります。まあ、トレント市に住民登録していると電気・ガスが安くなるのでメリットも多いのですが。イタリアで住民登録するには、"Ufficio dello Stato Civile"という役所に行って申請する必要があります。引越す数日前に申請しておいたのですが、そのときに「日中、何時頃なら家にいますか?」と聞かれました。どうやら、警察官が家にやってきて本当にそこに住んでいるのか確かめた上で住民登録が完了するようです。なかなか厳しいですね。ということで、朝の9時頃には仕事に出かけるけど、それまでなら家にいる、と言っておいたところ、おととい実際に朝8:45頃に家に警官が一人やってきて、僕が家にいることを確認し、家を見て何か書類にいろいろ書いて去っていきました。これで無事住民登録が住んだのだと思います。
ちなみに、イタリアには警察がおおざっぱに分けて3種類あるそうです。一つは軍隊の管轄のカラビニエリ。これは憲兵や軍警察などと訳されることもあるそうです。もう一つは、内務省管轄の国家警察。もう一つは、各自治体が管轄する地方警察。(と思ってWikipediaを見たら、実際は国家管轄が5種類、地方管轄が2種類の計7種類あるそうだ。これはすごい!)歴史的経緯でたくさん警察が生まれてしまったそうで、特にカラビニエリと国家警察は仕事の重複や縄張り争いもあってあまり連携がうまく行っていないようで、最近では重複する仕事をどちらかにまとめたりして効率化を図っているそうです。警察に電話したければ、112番にかけるとカラビニエリに、113番にかけると国家警察につながるようです。いざというときはどちらにかければいいんだろう。警察によって権限もまちまちで、例えば地方警察の警察官が凶悪犯罪を目撃してもその場では逮捕できないこともあって、とりあえず国家警察かカラビニエリに伺いを立てなければいけないとか。イタリアの官僚機構の複雑さには目を見張る物があります。ちなみに、僕の住民登録を確認しにきた警察官は地方警察のようで、物腰の柔らかい人の良さそうな人でした。
しばらく引越すこともないと思うので、週末は買い物に行きました。掃除機やアイロンやミキサーなど、今まで買いたかったけれど引越もあるからと思って買っていなかった物たちを買ってきました。本棚も必要なのだけれど、近くのホームセンターに行ってもぱっとした物が見つからなかったので、IKEAの通販を利用することにしました。早く届くといいなあ。]]>
新年、そして今までのまとめをまとめて
http://rimbaud.exblog.jp/18510435/
2013-01-31T07:32:58+09:00
2013-01-31T07:32:32+09:00
2013-01-31T07:32:32+09:00
t_oz
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最近はブログの更新が滞りがちになっていました。一つにはTwitterという便利なものを見つけてしまったということもありますが、イタリアに来てからあまり余裕がない日々を過ごしていたということも大きな理由です。この辺りで一つ去年イタリアに渡ってからの総括をしてみようと思います。以前ブログに書いたこととの重複もあるかもしれません。
イタリア、トレント市に渡ったのは去年の8/24でした。暑い夏の日。トレントは2009年のサマー・スクールで3ヶ月ほど来たことがあるので、右も左も分からない、という場所ではありませんでした。トレントのことをよく知らない方々のために少し説明すると、トレント市というのは北イタリアにあるトレンティーノ=アルト・アーディジェ州の州都で、トレント市自体はドイツ語圏ではないのだけれどオーストリアに近く、イタリアの一部となったのも他の大部分のイタリアよりは遅い第一次世界大戦後のことです。ということで少し他のイタリアとは様子が違うようで、トレンティーノ=アルト・アーディジェ州は自治州ともなっているので政治的・経済的に他のイタリアに比べて独自性が強いようです。他のイタリアの都市に住んだことがないので僕自身は比較ができないのだけれど、いろいろ話を聞いているとイタリアの他の部分に比べて行政は手際が良いし、経済も悪くない、郵便も信頼できる、とのことです。歴史的には、ドイツでプロテスタント運動が盛り上がってきたときにカトリックが危機感を抱いて会議をおこなった場所(トリエント公会議)、として知られています。そんなトレントには、トレント大学があります。物理の研究機関はこのトレント大学に加えてECT*(European Centre for Theoretical Studies in Nuclear Physics and Related Areas)という大層な名前の小さな研究所もあります。これら二つの機関は近くにあるのだけれど組織として独立しており、相互の交流もあまり活発ではないようです。もっと相互の交流を深めようという動きは常にあるようですが。イタリアにはおそらくこのようなよく似ているけれど相互に独立した公的機関というのがしばしばあって、縦割り組織の硬直化の弊害を常に感じながら過ごすことができます。ちなみに僕が2009年に参加したサマー・スクールはトレント大学ではなくECT*の方で、今回ポスドクとして来たのはトレント大学の方です。トレント大学というのは知らない人も多いかもしれないけれど、僕の専門分野(Ultracold Gasesと呼ばれる物理の一分野)に関しては、BECセンターという理論的拠点(最近は実験も)があって、ポスドク以上の身分の人だけでも現在16人を抱える活発なグループです。例えばランダウ・リフシッツの理論物理学教程の改訂をリフシッツとともに行ったピタエフスキーが現役の研究者として活躍しています。ちなみに彼は今月80歳の誕生日を迎えました。そんなトレント大学ですが、BECセンターは良いのだけれど、物理学科の他の人たちはほとんど見えてきていません。核物理とか加速器物理とかナノとかいろいろ居るようなのだけれど、BECセンターが充分大きくそして完結してしまっているので他分野との交流が生まれにくいようです。もっと相互の交流を深めようという動きは常にあるようですが。(このフレーズはすぐ上にも書いたような気がします。)
まあ、そんなトレントへ去年やってきました。バスにどうやって乗ればいいのかは分かっていたし、どこにスーパーがあるのかも何となく覚えていました。バスにどうやって乗ればいいのか、というのは単純なようで難しいことです。例えば、日本ではバスを降りるときに料金を払うことがありますが、アメリカではバスに乗るときに定額を支払うことが多いようです。一方、イタリアではバスに乗る前に乗車券を購入しておく必要があるので、乗ってしまったらもう手遅れです。多少勝手が分かっているというのは非常に楽でしたが、とは言っても前回とは違っていることもいろいろあって、例えば特に僕が学生ではなくてポスドクになってしまったということや、夏に結婚したということは大きな違いです。サマー・スクールでは宿舎はあてがわれていたし、言われたことに従っていれば生活に支障はなかったけれど、今回はいろいろ自分で見つけ出して行かなければいけません。トレントに着いてすぐのころは、アメリカに着いてすぐのころもそうだったけれど、まずは事務手続きに専念しました。事務手続きというのは例えば、滞在許可証の取得申請をしたり、イタリアの健康保険制度に組み入れてもらったり、イタリアの年金システムへの登録、大学のアカウントの登録、学校の食堂の利用証の発行などなど。滞在許可証の取得申請と一言で言っても、実際には4ヶ所くらいの場所にそれぞれ数回ずついかなければいけなかったりします。他にも銀行口座の開設や携帯電話の購入など個人的な生活基盤を整える必要もありました。そして、これはこの後の重要なテーマですが、アパート探しが必要です。アパートは、最初の一ヶ月は大学が所有するアパートに住まわせてもらえるんだけれど、その後は別の場所に個人的にアパートを借りなければいけません。最初はアパート探しがこんなに難航するとは思いませんでした。
アパート探しについては後にまとめて書くとして、しばらくトレントでの生活について書いてみようと思います。着いてしばらくは家にインターネットが無かったので、思い返してみると家に居るときは日本からスーツケースに入れて持ってきた本ばかり読んでいた気がします。当時読んだ本を思いつくままいくつか列挙すると、柳田『遠野物語』、島田『ほんとうの親鸞』、橋爪・大澤『ふしぎなキリスト教』、紀田『古本屋探偵登場』、澤地・半藤・戸高『日本海軍はなぜ過ったか』、更科『化石の分子生物学』、米原『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』などなど。一体イタリアに何をしにきているのだろう、という生活でした。しかしそれも最初の一ヶ月くらいで、そのうち読書熱も下がってきました。読書生活は良いとして、その他の生活ですが、まずは朝起きて学校へ行き、夜に帰ってくるというのが基本的なサイクルになります。イタリアに来て驚いたのは、みんな本当に「朝に学校へ来て、夜に帰る」ということです。朝9時〜10時頃に人がおおよそ集まり、夜の8時ころにはほとんど誰もいなくなります。アメリカではリズムがずれている人が相当数大学にいて、何時に学校に来ても誰かがいる、という様子でしたが、イタリアのこの健康な研究スタイルには驚きました。そして、おそらく土日はほとんど誰も学校に来ていません。フランス人と話していたら、彼の居たパリ大学でも生活リズムがずれている人は(特にロシア人!)多かったようで彼自身もかなり夜シフトが生じていたのだけれど、トレントに来たら半強制的にリズムが治ってしまったと言っていました。これがトレントの研究スタイルのようです。イタリアは他にも独特のリズムがあって、例えば多くの商店はお昼休みを3時間くらいとるので例えば午後2時ころに街に出かけても店がほとんど開いていません。日曜にはスーパーを含めほとんど開いている店がなかったり、夜は7時前に買い物を済ませておかないと店が閉まってしまったりと、地域全体が同じリズムで動いているように感じます。慣れるまでは少なからぬ戸惑いもありましたが、慣れてしまえばなんてこともないものです。週末は僕は特に何をするということもなく、強いて言えばのんびり散歩をしたりしながら過ごしています。トレントは盆地に街の中心があって、周囲を丘や山に囲まれています。丘にはぶどうとリンゴの畑が広がっていて、道では犬を連れて歩く人をよく見かけます。こういうところを散歩するのはなんとなく楽しいものです。
年末年始は義両親・義兄がイタリアに遊びにきてくれました。トレントを中心に、ボルツァーノやベローナに観光に行ってきました。イタリアに来てからずっとトレントに引きこもっていたので、旅行に出られたのは久々の気分転換になって非常に楽しかったです。ボルツァーノはトレントよりも北にあるボルツァーノ県の県都で、イタリア語人口よりもドイツ語人口の方が多いというほとんどオーストリアな州です。トレント県と同様にボルツァーノ県は自治県になっているのですが、トレントよりもイタリアへの帰属意識は弱く、独立すべきかどうかなんてことがしばしば話し合われているようです。(トレント県、ボルツァーノ県を合わせたものがトレンティーノ=アルト・アーディジェ州のようです。この辺りの仕組みは僕もまだよく理解していません。)ドイツに行ったことは無いけれど、ボルツァーノの街の雰囲気はなんとなくドイツっぽいなと勝手に感じました。ボルツァーノの最大の見所は通称アイスマンと呼ばれる、5300年前に死んだと思われる氷付けのミイラの展示です。ミイラそのものに加え、ミイラが身につけていた服やその他の持ち物も一緒に展示してあります。想像力をかき立てる面白い展示で、非常に興味深かったです。一方ベローナはトレントよりも南にある都市で、ローマの遺跡の多く残るイタリアっぽい街です。トレントやボルツァーノよりもずっと都会で、ベローナにはアレーナと呼ばれるローマ時代の円形競技場があったり、多くの壮麗な教会があったりと、観光地として賑わっていました。そんな年末年始。しかし、せっかくイタリアに住んでいるんだから、もっといろいろ見て回らないと損だなあ。
イタリアではイタリア語がわからないといろいろ不便なので、イタリア語のクラスにも少し通っていました。トレント市が開いている外国人向けのイタリア語講座というのがあって、半年で25ユーロという破格の値段です。これに参加してみたのですが、2ヶ月ほど通っているうちに完全についていけなくなってもう行かなくなってしまいました。僕はアメリカでも1ヶ月ほど授業を取って、入門者向けの文法書も一通り読んで理解していたつもりだったのだけれど、イタリア語クラスはそんなレベルを軽々と飛び越していました。なかなか面白い強引な授業の進め方で、
先生:「じゃあ、○○さん、この半過去の活用を順に言ってみてください」
クラス一同:「(半過去・・・まだやってないよね!?)」
先生:「うん、まだですね、でも、とにかく活用は?」
みたいな感じでした。これでも約1/3の参加者はついていけていたようです。みんなすごいなあ。さあ、これからはイタリア語はちゃんと自分で勉強しないといけない。
さていよいよアパート探しですが、僕はなんでも良いのでアパートを借りる、というわけには行かない事情がありました。妻同伴でイタリアに来たので、妻の滞在許可証の取得のために一定の条件を満たしたアパートを借りなければいけません。具体的に書くと、内法面積が45平方メートル以上の、ベッドルームを少なくとも一つ備えたアパートが必要でした。最初はこの条件はそんなに大変なものではなかろうと思ってたかをくくっていました。というか、こんな条件がなくても言葉の通じないイタリアでアパートを探すというのは容易ではありませんでした。必然的に英語を使うことになるのだけれど、日本で不動産屋に行って英語でアパート探しをしてみようとするところを想像してみてください。大学の人たちにどうやってアパートを探したら良いのかを聞いてみたところ、大きく分けて4つあるようでした。
1、知り合いのつてをたどる
2、大学の掲示板の広告を探す
3、インターネットの広告を探す
4、街中の不動産屋に行き、尋ねる
これらのうちどの方法を選んだのかというと、結局全部試しました。最初は知り合いのつてをたどり、二軒ほどの物件を当たり、そのうちの一軒に決めました。それは街からは多少離れるのだけれど、まあ広々として綺麗で、良さそうだと思いました。てっきりそこを借りることになるのだと思って悠々と構えていたのですが、その家はまだ中に人が住んでおり、彼らがいつその家を出られることになるのかわからない、ということが2〜3週間ほどして判明しました。どうもいつ出られるかわからないので他の物件を当たった方が良いよ、と言われてしまったので急遽他の物件を探し始めることにしました。とは言っても、最初に大学からあてがわれた場所は一ヶ月しか借りていなかったので、その期限ギリギリに他を探す必要が出てしまったのはどうにも困りました。しかし、大学に問い合わせたところ、大学のアパートに住む期間を2週間ほど伸ばしてもらえることになりました。さあ、時間ができたのでアパート探しです。街の中の不動産屋に行ったり、大学の掲示板の広告を探したり、インターネットの広告に問い合わせてみたりしました。イタリア語ができないので不動産屋に行ったり、大学の掲示板の広告を見て電話したり、というのはなかなかすんなりとはいきません。結局大学の掲示板の広告に出ていたある物件の大家さんが英語ができることがわかり、その物件も大学からの徒歩圏内のなかなか良さそうな場所にあって内装も一新したばかりだったので、そこを借りることにしました。広さも60平方メートルということで、大丈夫そうでした。結局そこに引越したのが10月の第2週くらいでした。引越をしてから、アメリカから日通を使って送っておいた荷物を受け取りました。段ボール30箱の大荷物です。なんでこんな大荷物になったんだろう。まあ、二人分の荷物だから多かったということにします。そして、妻の滞在許可証取得に向けてアパートの広さを証明する書類を取りに行ったら、実はアパートが思ったほど広くはなかったということが判明しました。これにはまいった。60平方メートルと聞いてはいたのだけれど、それは壁とかいろいろ含んだ広さで、壁やなんやかやを取り除いた内法面積は40平方メートル程度しかない、と言われました。そして、これでは許可は出せない、とのこと。大家さんとも移民局の人ともいろいろ相談して、大家さんもいろいろ頑張ってくれてなんとか解決しようと画策したのだけれど、結局広さが足りないということはどうもならず、新しいアパートを探さなければならなくなりました。これが10月の下旬くらい。11月はアパート探しに奔走しました。今度も掲示板を見たり、ネットの広告を探したり、いろいろ問い合わせました。でもそもそも45平方メートルを超える物件というのがあまり無く、あと僕のつたないイタリア語のメールの書き方が悪いのかどうも連絡をしても返事が来るのは半数程度と言ったところ。一番多い返事は、45平方メートルを超える物件はありませんというものでした。どうしてほとんど存在しないアパートを滞在許可取得の条件にするのだろう。要するに増えてきた移民対策ということなんだけれども。。そんななか、街の中の不動産屋に積極的にいろんな物件を紹介してくれるところを見つけてアパート探しはだいぶ楽になりました。そこが紹介してくれるアパートは素敵なものが多いのだけれど、結局大家に(なぜか)ダメと言われたり、値段交渉がうまくいかなかったり、そうすんなりとは見つかりません。中には、45平方メートル以上という条件はクリアするけれど、よく調べてみると大きなワンルームなので「ベッドルームが最低一つあること」という条件がクリアできなかったという物件もありました。(イタリアにはイタリアなりのベッドルームの定義があるそうです。)最終的に、その不動産屋の担当者が住んでいて、1月に出て行くので空く予定のアパート、というのを紹介してもらい、そこに決めました。当初はなるべく早く、できれば12月中に引越を終えたかったのだけれど、こうも見つからないとそんなことは言っていられず、引越は1月にずれ込むことになりました。しかし、その不動産屋の担当者が住んでいるアパートというのがまさに街の中心部で、しかも広々とした素敵なアパートなので、ここまで待った甲斐はあった、と思っています。そして、先日、1月26日、ついに新しいアパートへ引越してきました。段ボール30箱があったので、大学の友人ら(Stefano、Ricardo、Marta、ありがとう!)に車と手を借りました。今週始めには、このアパートが諸条件をクリアするという正式な書類も手に入れ、万事丸く収まりました。と、書いたけれど、実は丸く収まる前にも一つ問題がありました。この新しいアパートを申請に行ったら、最初はまた「狭すぎる」と言われてしまったのです。しかし、その場で役所の人に不動産屋の人と電話で話してもらい、その後数日経ったら役所の人から電話があって、どうやら狭すぎると言ったのは古い情報に基づいていたようで、もう一度調べたら広さはクリアしていると言われました。また狭すぎると言われたときはどうなるかと思ったけれど、よかったよかった。これが僕のイタリア・アパート奔走記です。みなさん、イタリアでアパートを探す際には充分注意してください。。
さあ、そんな感じで今までずっと気の休まらない日々を過ごしてきました。しかし、先週末に引っ越しを終え、新居が諸条件をクリアするという書類も手に入れたので、気持ちもだいぶ楽になりました。ということで、久々にブログを更新してみました。これからは、もうちょっと気持ちの余裕を持ってこまめに更新したいなあと思うけれど、さあ、どうなるでしょうか。]]>
諸聖人
http://rimbaud.exblog.jp/18126060/
2012-11-01T21:54:47+09:00
2012-11-01T21:54:30+09:00
2012-11-01T21:54:30+09:00
t_oz
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今日(11月1日)は諸聖人の日という祝日で、学校がお休みなので家にいます。
イタリア生活は思いのほか難航しています。なんと、まだアパートが見つかっていない!最初に住んでいたアパートからはもう引越したのですが、引越先に問題が見つかり、早々に出なければならなくなりました。なので、渡伊二ヶ月以上経っていますが、未だにアパート探しです。どこかに良いアパート見つからないかなあ。]]>
イタリア近況
http://rimbaud.exblog.jp/17955001/
2012-09-11T02:20:00+09:00
2012-09-11T18:42:14+09:00
2012-09-11T02:20:40+09:00
t_oz
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特に困るのは、今住んでいる家は大学から借りている仮の家なんですが、この家にはインターネットが無いということです。いかにインターネットに依存した生活をしていたのかを実感しています。
この家には今月中は住んでいて良いのですが、来月からは別の場所に引っ越さなければいけません。引越先を探すのが今一番苦労していることです。やはり、イタリア語ができないといろいろ不便です。「イタリア語ができない方にアパートを貸すのはちょっと。。。」と言われることもあります。(おそらくそう言われたんだと思う。イタリア語で言われたので定かでない。)まあ、意思の疎通のできない相手にアパートを貸すことの不安は分かるので文句はありません。
大学自体は非常に良いところです。特にここのBECセンターはなんというかみんな仲良しで非常に気持ちがよい。イリノイのときのように、向かいに座っている人が何の研究をしているのかもしらない、というのとは大違いです。お昼になると20人くらいで大挙して学食にランチを食べに行ったりしています。僕がアパートを探しているということを知っている人たちがいろいろと物件情報を教えてくれるのも助かります。
トレントは古い雰囲気の残る良い街です。僕のような異邦人が入っていって良いのだろうか、と思うこともたまにあります。なるべく早くイタリア語とイタリア文化を学んで郷に従えるようになりたいと思っています。それとも、ローマではローマ人がするようにせよ、かな。(そうは言ったけれど、大学のおかげで明らかに外国人と分かる留学生もそこそこの数はいるし、外国人であるということ自体では不便はしていません。)先日は街の中心広場で中世祭りをやっていて、中世風の格好をした人が糸を紡いだり、矢を射ったり、木彫り細工を作っていたりしていて面白いものを見ることができました。中世人の行進もありました。
そんな日々を過ごしています。明日は大学でセミナー。BECセンターのみんなに僕がどういった研究をしてきたかを紹介するという趣旨。さあどうなるだろう。]]>
結婚
http://rimbaud.exblog.jp/17890096/
2012-08-22T13:46:02+09:00
2012-08-22T13:45:59+09:00
2012-08-22T13:45:59+09:00
t_oz
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先週の日曜日(19日)に結婚しました。
明日、妻とともにイタリアへ向けて出発します。
今回の日本帰国は一ヶ月と少しで長かったんだけれど、怒濤の勢いで過ぎてしまって息つく暇も無かった。しかし、充実したひと月になったような気がします。
みなさまこれからもどうぞよろしくお願いします。]]>
古事記
http://rimbaud.exblog.jp/17876822/
2012-08-18T16:45:00+09:00
2012-08-18T16:50:16+09:00
2012-08-18T16:45:19+09:00
t_oz
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確かに、新書一冊の中に古事記の主要な物語と解説をつめこんであってタイトル通りの内容にはなっているんですが、どうも僕には合わない本でした。というのは、作者の解釈が過剰に含まれていて、書かれている内容が果たして作者の解釈なのか、皆が認める形で古事記の中に書かれているのかがわからなくて話半分で読み進める形になってしまったからです。
例えば、「はじめに」において「『古事記』の登場人物がすべて、むやみに人間や動物を傷つけない優しい人びとであることに注目したい」なんて書いてあります。因幡の白兎の話で皮を剥かれた白兎に海塩を浴びて風に当たれと言った八十神はどうなるんだろう。本の中の他の部分の解説も、古事記の登場人物はみな優しい人たちだ、という前提に立ってその偏見でもって書かれているような気がしました。
他には、訳文としてイザナギとイザナミの結婚の場面でイザナミが「私の欠点は、用心深く控えめなことです」と言ったことになっていました。こんなことを言ったとは思えないがと思って原文(岩波文庫版)をあたってみると、訓み下し文で「吾が身は、成り成りて成り合はざる處一處あり」と書いてありました。これを上記の様に訳したのだとしたら、これは翻訳と言うにはあまりに著者の解釈が入りすぎているように感じました。
全編こういった調子でどうも信頼しながら読むことができませんでした。
意味の分からない書き方をしている箇所も多数ありましたが、例えば仁徳天皇陵について「仁徳天皇陵古墳は、有力な大王であった雄略天皇のためにつくられたものとみても誤りではあるまい」と書いてありました。これにはまいった。著者の考えとして「仁徳天皇陵古墳は、有力な大王であった雄略天皇のためにつくられたものであろう」と書くなら何も文句はありませんが、「誤りではあるまい」というのは、一体何を言いたいんだろう。雄略天皇のものであるかそうでないかのどちらかなんだろうから、誤りか誤りでないかのどちらかでしょう。
というわけで、あまり真剣には読めず、話半分の態度で、でも最後まで読んでしまいました。今度はもうちょっとバランスの良い解説書を探して読もうと思います。]]>
本帰国
http://rimbaud.exblog.jp/17767207/
2012-07-16T17:35:00+09:00
2012-07-18T01:15:13+09:00
2012-07-16T17:35:25+09:00
t_oz
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思えばいろいろありました。22のときに来て今は28になっているので、結局20代の大部分をUrbana-Champaignで過ごしていたような気がしています。
結局卒業には1年余分に計6年かかってしまったわけですが、最後の1年はいろいろ成果がでたので結果的には多めに在籍して良かったと思っています。そもそもUltracold Gasに興味があって大学院に出願することになり、結果的にUltracold Gasの研究で博士号を取得できたのはなんと言うか予想外に計画通りです。
同じような質の研究を(もちろんテーマは違っても)日本でできたかと言えば、それはできたと思うけれど、僕にとってアメリカで大学院生活を過ごしたのはもっと文化的・精神的な意味で得難い経験になったと思います。何と言っても海外生活は楽しい。日本の人たちとは全然違う考え方を持つ人たちと日々触れ合うことができるというのが僕の考える留学のもっとも大きなメリットです。世界には日本人以外の人たちがいる、というのは日本でも日々ニュースを見ていればわかることだけれど、そういう人たちを実感として知るのはやはり実際にそういう人たちと会って暮らしの一部を共有して行かなければわからないことが多いと思う。もう一度学部の頃に戻って大学院に出願することになったら間違いなく外国の大学院に出願すると思う。イリノイの大学院で良い指導教官に会えたのは非常に幸運だったけれど、それは日本かアメリカかあるいは他のどこかというのとはおそらく別の問題でしょう。
そんなこと書いてみたけれど、でも、イリノイに来てから物性物理に対する見方がだいぶ変わったのも事実です。これはアメリカだからということよりもむしろ学部から大学院で違う場所に移ったからだと思う。(あるいは、もしかしたら単に学部から大学院に上がったからだけなのかもしれない。)どう変わったのかというと、なんだか学部のときには物性物理は最先端ではコンピュータによる数値計算(もしくは対極として特殊な模型による厳密解の研究)が必須になっているという勝手なイメージを持っていたけれど、イリノイで物性理論をやっている人たちで(量子Monte Carloや、あるいはFortranやCなどを使った何らかの)数値計算を日常的に使っているのはせいぜい2つか3つのグループで、他の大部分のグループは別に数値計算をせずに結果を出しているように感じています。(僕がいま数値計算を日常的に使っているグループとして頭に浮かべているのはCeperleyのグループとDahmenのグループ、あとおそらくGoldenfeldのグループです。)Green関数法すらあまり人気がないというのにも驚きました。(以前も書いたけれど、僕がFetter&Waleckaを読んでいたら、「そんなGreen関数法みたいな前時代的なものを学んでどうするの?いまどき誰も使ってないでしょ。」と本気で言われたことがあります。Leggettは「Green関数法が本質的な物理の理解に寄与したことはない」と言ってGreen関数法が嫌いだと聞きました。)違う場所では違う物理の雰囲気があるようです。ということで、いろいろな物理を知るためにも学部から大学院で違う場所に行くことはお勧めです。
でもイリノイでの大学院生活に不満があったのも事実です。一番大きな問題は、研究を議論できる相手がボス以外にどうも見つからなかったということでした。気軽に日常的に研究の話あるいは物理の話をできる人がいなかったため、研究生活はなかなか孤独でした。(どういうわけか同じグループの中にも研究についての話ができる人はいませんでした。)ボスも丁寧に学生を指導するタイプというよりもどちらかというと放置で、具体的な研究テーマを与えるということもしない人だったこともあってか、研究を始めた当初はなかなか進みませんでした。まあ、今になって考えてみると地力というか一人で研究する力は養われたと思うし、そんなにネガティブな側面ばかりではなかったのかもしれません。しかし、たまにサマースクールに行ったり日本に帰って本郷にお邪魔していたりするときはいろんな人と物理の議論ができることが実に楽しかったので、やはり議論できる相手がいるにこしたことはないでしょう。結局Urbana-Champaignにいる間に論文を6本書いたけれど、どれもボスとの二人での共著でした。他の誰とも論文を書いたことが無いというのは、ちょっと不自然かなあとも思います。次に行く場所では是非いろんな人と研究について話ができたら良いなと思っています。(おそらく、次に行く場所では、それが可能だと思う。)
物理の話はこれくらいにしておきましょう。最初にも書いたけれど、Urbana-Champaignに来て一番良かったとのはいろんな人たちと出会えたことだと思っています。特に、アメリカに来て最初の2〜3年はほとんど日本人との交流が無く、日本語の本は読んでいたけれども日本語を発声するのは実家との電話あるいは一時帰国中のみという状況が続いていました。(当初は一時帰国した時に、周りの人が日本語を話して自分も日本語を話すのが実に奇妙に感じられていました。)そういう新しい環境に身を置き、いろいろな価値観に触れることは非常に大きな刺激になりました。アメリカに来て初めて神様を信じている人やベジタリアンや同性愛者や進化論を信じていない人に会いました。アメリカに来るまでユダヤ人とイタリア人とスウェーデン人の外見上の違いなんて全くわからなかったけれど、今ではだいぶわかるようになってきました。(それよりもあるタイプの中国・韓国人と日本人を見分ける方が難しいかもしれない。)ただ、黒人の知り合いはできませんでした。なぜだろう。物理学科同期45人中黒人は1人だけで、人種のサラダボウルのアメリカと言えども物理で黒人はまだまだ少数派のようです。ともかくも、僕の(まだ終わっていないけれど)20代における価値観の変化・形成は多様な考え方の存在に実感として気づくということがメインテーマだったように感じています。一番身近に影響を受けたのはもちろんアメリカ的価値観だと思いますが、しかし、イリノイ大学の雰囲気がアメリカ的価値観を代表するような場所なのかというとそれも違うのかもしれません。そもそも代表的アメリカ的価値観なんてないのかもしれない。様々な価値観が混ざり合うこともせず反発することもせずにただそこにある、という状況を僕はアメリカで見てきました。僕がアメリカに来て初めて神様を信じている人に出会ったように、逆にイリノイで会ったアメリカ人やメキシコ人の中には僕と会って初めて『神様はいるのだろうか』という問いを発することすらせずに神の不存在を当然のこととみなしている人間と会ったというようなことを言っている人もいました。世界は多様であるからこそ面白い。僕は世界中の人は決して分かり合えないし、世界から宗教上のあるいは思想上の紛争がなくなることはあり得ないと思っているけれど、その考え方はアメリカに来てから徐々に形成されていったような気がします。(もちろん紛争が無くなればそれに越したことはないんだけれど。)イスラム教徒の友人は進化論者は頭のおかしい人たちだと言い、無心論者の友人は進化に神が介入しているなんて考える人は頭がおかしい人たちだと言うけれど、その両方とそれぞれ話しているとそれぞれ非常に聡明な人たちでどちらも頭がおかしいはずはなく、単に考え方に譲歩できないほどの違いがあるというだけでした。あるいは、共産主義者の友人は市場の自由競争をサポートする人たちは気が狂っていると言い、保守的な資本主義者の友人は共産主義なんて歴史が否定した制度を未だに擁護する人たちは悪魔に取り付かれているに違いないと言うけれども、どちらもそれぞれ聡明な人たちでした。要するに人間は自分の通過してきた環境や育んできた考え方によっていかに世界の見方が規定されてしまうのかということを強く感じた6年間でした。もちろん環境によって見方が大きく制限されてしまうのは僕自身も例外ではないけれど、自分の考え方がどういう制限を持っているのかはどうも自分ではわかりにくいので、いつも他人の指摘で気づかされています。なんだか、ありきたりなことを長々と書いてしまったような気がします。段落を変えて、英語についてです。
一般的に言って、アメリカ留学の最も直接でわかりやすいメリットは英語の上達かもしれません。僕の英語は確かに上達したと思います。最初は近くの店で水を1本買うのも冒険だったけれど、今では役所に行って多少面倒な交渉も別段億劫に感じずにできるようになりました。(もっとも、役所での交渉は何語であっても億劫なときはありますが。)英語の本も昔よりも気軽に読めるようになったけれど、でも英語に関しては渡米当初に期待していたほどには上達しませんでした。アメリカに行ってただ漫然と暮らしているだけでは英語は一定水準には達するけれども、それ以上には上達しないのだと思います。本当に英語を使えるようになりたければアメリカの生活の中で日々英語の勉強を絶やさないことが必要だと実感しました。未だにやはり英語の本を読んでいるとわからない単語はそこここにあって、辞書無しでも本のあらすじを追うことにそれほどの困難はないけれど辞書がなければ本を隅から隅まで(少なくとも英語に関しては)読める状態になっていないので、満足ができる英語のレベルには達していません。同じ本の英語原書と日本語訳があったらつい日本語訳に手が伸びそうになって英語原書を結局手にし、そしてよくわからないまま英語原書を読む、というのが現状です。とは言っても、渡米当初よりも格段に上達したのは間違いありません。周りのアメリカ人の友人らの何人かからは、僕の英語は大学院入学当初より格段にうまくなって現在ではほとんど不自由無く流暢に話す、と言われたこともあるのでおそらく客観的に言っても英語の上達は明らかであったのだと思います。(あるいは単に渡米当初いかにひどかったのかということを示しているのかもしれません。)この英語の上達は端的に大学院留学をした大きなメリットだと思います。しかし、結局冠詞の用法は体得できないままでした。特に、いつ"the"をつけるべきでいつつけないべきのかは未だによくわかりません。これからは英文を読むときに意識的に"the"の用法に気をつけながら読んで慣れていかなければいけないと思っています。まあ、とにかく英語の習得はアメリカ留学の一つの目的であり、それは十分に達することはできなかったけれども顕著な結果がでたことは確かなのである程度の意味はあったのだと思います。
そんな6年間でした。次は9月からイタリアで2年間ポスドクをすることになります。機会を見つけて今までとは少し違う研究もしてみたいんだけれど、さてどうなることか。加えて、イタリア語・イタリア文化をどれだけ身につけることができるかが勝負です。]]>
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